マンガ日本の歴史 13
院政と武士と僧兵
石ノ森章太郎
中央公論社
1990年 11月5日 初版印刷
1990年 11月20日 初版発行
『マンガ日本の歴史 12 傾く摂関政治地方の社会』の続き。
親政を取り戻した後三条天皇(71代)。
目次
序章 中世への胎動
第一章 天下第一の武者・源義家
第二章 白河院政へ
第三章 伊勢平家の進出
付章 熊野詣
1073年(永久5年)、後三条上皇は前年に貞仁親王(白河天皇・72代)に譲位し、病気平癒祈願として、石清水八幡宮、住吉神社、四天王寺への参詣の旅を続けていた。御年40歳。病気平癒とは表向きで、実のところは寺社勢力をコントロールしようという意図があった。かつ、上皇という自由な立場で、王権強化に取り組んでいた。
この時、後三条天皇時代から荘園整理などで腕をふるった大江匡房(おおえまさふさ・33歳)は、白河天皇の蔵人として、後三条路線を推し進めた。
大江匡房(1041~1111)は、後に『遊女記』『傀儡子記』『洛陽田楽記』など、当時の世相をしる貴重な文献を残す。ただ、実際の官としての仕事を書いた日記は、本人が焼いてしまったという。きっと、世に知られてはまずい本音がかかれていたのだろう、、と(『小林秀雄の恵み』橋本治)。
後三条天皇没後も、白河天皇は摂関を抑えて親政を継続し、院政の流れもつづけた。
1081年、比叡山延暦寺(山門)では、西暦993年の分派以来、園城寺(三井寺=寺門)との対立抗争が続いていた。朝廷がその対策に手を焼いているさなか、4月15日、日吉社(ひえしゃ)祭礼をめぐって、抗争が繰り返された。山門の兵が寺門を襲撃し、園城寺は壊滅的な状況となった。
その悲惨な状況のなか、中宮賢子(25歳)と双六を楽しんでいた白河天皇(29歳)につたえたのは、蔵人大江隆兼(たかかね・匡房の長子)。隆兼の話にはあまり興味のなかった白河天皇だったが、双方使者多数ときいて、検非違使では抑えきれないとし、武士の力を使うしかない、と考える。
ここで、武士として朝廷に重用されたのが、源義家(43歳)。前九年の役でも活躍した義家は、武勇第一の人という名声がますます高くなっていた。
山門と寺門の抗争が激しくなると、帝の周りの護衛を厳しくする必要に迫られた関白・藤原師実(もろざね)は、義家に頼ることもやむなし、とする。
帝の参詣への護衛であることから、武士の恰好ではなく公家家人の束帯を身に着けて護衛することとなる。武士による護衛は前例が無く、帝の周りを武士の恰好をした者がウロウロするのは、見た目がわるい、、、ってことだったのだろう。
旅の護衛の最中は、公家装束をきていた兵たちだったが、帰りが夜になると、いざとなったら動けるようにといって義家たちは勝手に武士の装束となり、弓矢を携えて護衛した。
武士が、武士として天皇の警護にあたるというのは、画期的なことだった。
そうして義家は、天皇の行幸に際して、甲冑・弓矢をもった郎党を従えて武士として公然と警護することを当たり前のこととしていった。
1083年(永保3年)、源義家は、陸奥守鎮守府将軍に任じられ奥州に下った。そこには、息子・鎌倉権五郎景昌(ごんごろうかげまさ・16歳)の姿もあった。
当時、奥州は清原真衡(きよひらさねひら)の一族がおさめていたが、内訌が絶えず、不安定な情勢だった。そんな状況のなかで義家を迎えた清原一族は、歓迎の宴を催す。そしてそこで明かされたのは、真衡の息子成衡(なりひら)の妻は、義家の父・頼義の落胤であり、義家の異母姉妹ということだった。頼義は、前九年の役のときに、陸奥でちゃっかり子孫を残していた。
ということで、清原家の内訌には介入しない姿勢をみせていた義家だったが、内訌が激しさを増してくると、内訌に介入し、真衡と抗争していた清衡・家衡を降伏させる。ところが、今度は、清衡と家衡が衝突し、後三年の役となる。義家は、清衡を助けて闘った。
後三年の役を治めた義家は、奥州平定を「国解」をもって朝廷に報告したが、白河上皇は義家の活躍がおもしろくなく、黙殺した。くわえて、翌年には、国司を藤原基家(もといえ)に交替させた。
面白くないのは、義家たち、、、。天下一の兵にあつまった家人たち・・・。
義家は、私財で家人たちに恩賞を与え、主人と家人との関係がかえって深まっていった。
一方、1084年、白河天皇は、急に体調をくずした中宮賢子(藤原師実養女)を28歳の若さで亡くす。悲嘆にくれた白河天皇は、法勝寺に常行堂を建立し、ひたすら賢子の供養にいそしんだ。翌年、皇太子実仁親王が急逝し、賢子の子である善仁(よしひと)親王に譲位するといいだす。本来なら、実仁親王の弟である三宮(輔仁すけひと)親王がつぐのが、先帝・後三条天皇の遺言だったのに、それを無視したのだ。
実仁親王、輔仁親王は、白河天皇の異母兄弟で、みんな後三条天皇の子ども。
そして、わずか8歳の善仁親王が堀河天皇(73代)として即位。白河上皇は、摂政藤原師実を無視して、院庁を組織した。師実は、娘婿に無視された形。そして、重用されたのが、左大臣大江匡房、上皇の伯父・大納言藤原実季(さねすえ)など。白河上皇は、自分と親しい者ばかりで体制を固めた。また、「北面の武士」を親衛隊として身辺を守らせた。
白河上皇は、武士の力を利用して、勃興する寺社を抑え、紀州の熊野三山の統括にも着手した。
ところが、義家の力がどんどんついてくると白河上皇は面白くない。そこで、義家を冷遇して、弟の義綱をとりたてることで、武士間の力をバランスさせようとする。義綱はどんどん偉くなる。一方で、寺社も武力で強くなる。寺社の大衆が他の寺や官の非法を武力行使でうったえるという強訴が数多く勃発するようになる。神祇がふたたび盛んになり、京の街では、貴賎を問わず田楽に夢中になっていた。
田楽とは、もともとは、田植えや農耕儀礼に、笛や鼓を鳴らして舞ったものに始まるとされるが、のちには、歌って踊って曲芸をする、等の芸となっていく。吉川英治の『私本太平記』で、高氏の子を産む藤夜叉は田楽女。
田楽は、要するにお祭り騒ぎで、みんな楽しんだ。そのことが、大江匡房の『洛陽田楽記』にも描かれている。
白河院政の時代は、京と地方との往来がかつてないほど頻繁となり、地方のものが大量に入り込んできた。そのひとつが、田楽でもあった。
京が田楽に明け暮れている1096年、白河上皇は、愛娘・郁芳門媞子(賢子の子)を亡くし、剃髪出家した。出家して放蕩三昧に明け暮れていた。そんな時白河上皇のこころをとらえたのが、祇園女御。祇園女御の素性はよくわかっていないが、后や中宮に劣らぬ権勢を揮うようになっていく。そこに取り入ったのが、伊勢平氏・平正盛(まさもり)で、どんどん勢力をつけていく。
ここでまた、面白くないと思うのが白河上皇。長く冷遇していた源義家を院へ呼ぶ。かつては「八幡太郎おそろしや」と言われた義家も、すでに60歳。平氏とあらそうようなことはせず、源平力をあわせて院をまもることとする。
1101年、白河上皇は、祇園女御に子どもが生まれなかったので、養女として、藤原公実(きんざね・白河上皇の従兄)の赤子をもらう。後の待賢門院璋子。
1107年、堀河天皇が29歳で没する。長子宗仁(むねひと)が5歳で即位。鳥羽天皇(74代)の誕生。本格的な白河院政が展開される。
1108年、平正盛は、源義家の第二子・義親を追討したとして、その功績を認められる。そして、源氏と平氏は揃って防衛軍として登用されるようになる。
白河法皇は、平氏と源氏を互いに競わせるようにしてうまく使いこなした。正盛は、祇園女御との密接な関係を保ち続けることで、地位を安泰なものにする。
1117年、17歳になった璋子は、2歳年下の鳥羽天皇のもとへ入内。璋子を溺愛していた白河法皇は、寂しさを埋めるために関白藤原忠実(ただざね)の娘・泰子(たいし)を欲しがるが、忠実がこれを断ったために、二人の仲は決裂。関白の立場は飾り物のようになってしまう。
1123年、今度は、21歳の鳥羽天皇が譲位させられ、璋子の子顕仁(あきひと)親王が5歳で即位する。崇徳天皇(75代)の誕生。
1129年、白河院は病に倒れ、77歳で病没。27歳になっていた鳥羽上皇は、目の上のたんこぶがいなくなって、いまこそ独自路線!!と政治に介入する。忠実(55歳)を呼び戻し、荘園整理令を凍結し、寧ろ積極的に荘園寄進をうけて、自らが最大の荘園領主へと進もうとする。
ちなみに、このころ、新しい秩序と論理を浄土信仰に求めた人々は、積極的に寺社に参詣した。熊野への参詣も盛んになったのは、この時。
白河上皇9回、鳥羽上皇21回、後白河上皇34回、後鳥羽上皇28回、、、と熊野詣は繰り返された。その入り口が発心門。本宮、新宮、那智と、人々は参詣した。
徒歩か馬か、籠か、、、それしか手段のなかった時代にこれだけの回数参詣したというのは、すごい。まるで、アイドルのコンサートにでも行くようだ・・・・。私は、、、いっても、人生でもう一回くらいかな・・・。
この時代に始まった院政が、後白河の時代まで続く、、、。
後三条⇒白河⇒堀河⇒鳥羽⇒崇徳 までは、子供への譲位。そして、このあと、崇徳から近衛、後白河、、、と兄弟間での後継ぎへ。。。。