『マンガ日本の歴史 11  王朝国家と跳梁する物怪』 by 石ノ森章太郎

マンガ日本の歴史 11 
王朝国家と跳梁する物怪
石ノ森章太郎
中央公論社
1990年9月5日 初版印刷
1997年9月20日 初版発行

 

『マンガ日本の歴史 10 将門・純友の乱と天暦の治』の続き。

megureca.hatenablog.com

東は平将門、西は藤原純友と、地方で地元貴族たちが暴れ、それを鎮圧したかの時代。11巻は、いきなり源氏物語から始まる。

 

目次
序章 栄華の影に・・・・
第一章  摂関政治の復活
第二章 道長の時代へ
第三章 花開く王朝時代
第四章 厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)

 

平将門の乱が静まった後、まだ人々は物怪や生霊による災難に怯えていた。そんな時代に生まれたのが、源氏物語。本書では、夕顔が呪い殺されてしまう場面から始まった・・・・。最近、小林秀雄の『本居宣長を読んでいて、やはり源氏物語をちゃんと読み直さないといけないかなぁ、、と思っていたところに、『源氏物語』。。。

 

まぁ、源氏物語は、紫式部の創作だとしても、怨霊・物怪が恐れられていた時代ということ。そして、人を呪う呪詛行為が横行し、陰陽師や祈祷僧が活躍。そんな時代背景が、人々に極楽浄土を望んで法華経と向かわせた。

 

朝廷では、藤原氏の他氏排斥がふたたび盛り上がる。そして起きたのが、安和の変権大納言藤原伊尹(これただ)が、左大臣源高明が謀叛を企てているといい立てて、失脚させる。

 

972年、伊尹(49歳)が没する。兄弟の兼家(44歳)、兼道(58歳)が関白の地位を巡って争うものの、年上の兼道が関白に。兼道は、円融天皇(64代)の関白となる。しかし、5年後、兼道は病でなくなる。

 

円融天皇の後の花山天皇(65代、冷泉天皇(63代)の息子)は、右大臣道兼(兼家の息子)に巧みに操られて、出家してしまう。帝が宮中から消えたことを関白頼忠につげにいったのが、藤原道長(兼家の息子)、当時21歳、だった。ここから、道長の躍進がはじまる。

 

兼家は、道長の他に、道隆、道綱、超子(冷泉女御、三条母)、道兼、詮子(円融女御、一条母)といった子どもたちがいた。

兼家は、摂政の地位を手に入れると、自分の子どもをどんどん出世させる。道長はその波に乗って、どんどん出世。

 

道長は、見た目もよかったが、武芸、学問も達者だった。そして、源雅信の娘・倫子と結婚。道長と倫子は、4人の女子、二人の男子をもうけた。

 

990年、兼家が62歳で死没すると、長男の道隆(38歳)が摂政となる。道隆は娘の定子を一条天皇中宮とし、息子の伊周を特別に昇進させる。伊周は、7つ年上の叔父・道長をライバル視していて、なにかと反発していたけれど、武芸も頭も、道長には叶わないのが現実だった。

 

995年、道隆が病気で死没。伊周がその後釜をねらったけれど、詮子の意見で、道隆の弟・道兼が関白となる。ようやく関白になれた道兼だったけれど、既に病に侵されていて、関白を継いでたったの7日で病没。世にいう、7日間関白。
伊周と道長の対決再び!

 

しかし、ここでもまた詮子が帝の国母として一条天皇へ進言したことから、道長が関白となり、伊周は自滅していく。

 

996年、道長は31歳で公卿の最高地位、正二位左大臣となる。

 

このころ、地方では、各地で国司の行いが横暴だと百姓が訴える事態が数多く起こるようになる。そんな中でも、道長は、娘を天皇家へ嫁がせ、せっせと自分の地位を固めていく。

その中でも有名なのが、一条后定子(道隆の娘)に対抗して、一条天皇に二人目の后として娘・彰子(しょうし)を中宮とさせたこと。定子につかえていたのが、清少納言。彰子に仕えていたのが、紫式部才女二人の対決!

実際には、紫式部が彰子のもとに参内したのは、定子が25歳で没したあとだったことから、紫式部清少納言が宮中で出会ったかどうかは不明・・・。

 

1008年、彰子は敦成(あつひら)親王(後の後一条天皇・68代)を生む。道長はさらに娘たちをつぎつぎと天皇家に嫁がせる。もう、だれがだれの妻で、誰の母だかも、、ぐっちゃぐちゃ・・・。
とにかく、道長は、娘を全員天皇家に嫁がせ、一家より三后を立たせるという、前代未聞のことをやってのけた。そして、詠ったのが、

 

この世をば我が世とぞ思う望月のかけたることも無しと思へば

 

道長の絶頂。

 

その後道長は、出家して行観(ぎょうかん)と号するようになる。時に54歳の道長狭心症の発作に悩まされるようになり、阿弥陀信仰(浄土思想)にのめり込んでいく。吉野金峯山、弥勒浄土といわれる金峯山にも参詣した。

 

浄土思想の先駆者は、空也上人空也は、903年生まれ、972年に六波羅蜜寺で没する。有名な口から仏さんが出ている重要文化財 空也上人立像は、六波蜜寺蔵

 

浄土思想を大成したのが、恵心僧都源信で、『往生要集』を著した。

 

源信は、この世は不浄の地であり この世を離れ 来世の浄土を求めようと説いた。それが、 厭離穢土・欣求浄土。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えながら、極楽浄土を思う。極楽浄土を思い描きやすいように、来迎図や阿弥陀像などがつくられるようになる。

1027年、道長は念仏を唱えながら、62歳で 息を引き取った。

 

おまけ
・時代概説 摂関政治全盛期の社会  義江彰夫
律令制以来、藤原北家による摂政・関白の地位が続くが、村上朝など、親政を進めようとする天皇もいた。しかし、冷泉天皇即位とともに実頼が関白となり、969年の安和の変で源家を排除して以来、摂政・関白は常置のものとなった。
 道長の時代は、華やかな社会だった訳ではなく、世の中では物怪による怪事件、横暴な国司に反発する郡司百姓の訴えなどが数多く起きた。

 

教科書にのは載らない歴史が、いっぱいある、、、ってことだね。歴史こそ、広い視野でみないと、見誤る、、、と感じる今日この頃。。。