『マンガ日本の歴史10  将門・純友の乱と天暦の治』  by 石ノ森章太郎

マンガ日本の歴史 10 
将門・純友の乱と天暦の治
石ノ森章太郎
中央公論社
1990年8月20日 初版印刷
1997年3月31日 3版発行

 

『マンガ日本の歴史 9 延喜の治と菅原道真の怨霊』の続き。

megureca.hatenablog.com

道真が左遷された大宰府で亡くなり、道真を追い出した関係者に次々と災難が降りかかる。そして、東でも西でも、地方で反乱が起こる。東は、平将門。西は藤原純友


目次
序章 将門の首
第一章 将門・純友の乱
第二章 兵(つわもの)たちの夢
第三章 天暦の治

 

第10巻は、平将門の乱と、純友の乱について。そして、両者が朝廷に負けてもなお世の中は天災・飢饉・疫病等で苦しみ、荒廃は続いた。そして、10巻の最後は、空也のような遊行僧の登場。

 

これら、承平・天慶の乱が起きていた時の朝廷は、醍醐天皇(60代)皇太子・寛明親王が8歳で即位し、朱雀天皇(61代)となった時代。そして、朱雀天皇の弟である村上天皇(62代)につながる。

 

平将門の先祖は、桓武天皇につながる。桓武天皇の曾孫である高望王(たかもちおう)の孫であり、その父は坂東(関東地方)で前鎮守府将軍・良将。菅原道真の怨念を晴らすということも一つの口実として、坂東で勢力を伸ばした。将門軍にくわわったのは、もと罪人からそのあたりの農民など、いろいろな人がまじっていて、かれらは「兵(つわもの)」と言われた。手柄をあげて、身をたてよう、、、という、兵たちの夢が、将門の乱をささえた。

一方、純友は西で海賊として勢力を伸ばす。941年には、朝廷の西の拠点であった大宰府を占拠し、兵らは宝物を奪った。

 

将門も、純友も、最後は朝廷に打ち取られる。打ち取られた将門の生首は、しばしサラシものにされた。そして、その生首があたりを飛んだ、、、という怖い怖い言い伝えにつながる。将門の首塚は、全国に存在する。

今でも、千代田区大手町にも首塚があるのだそうだ。

 

朱雀天皇から村上天皇に譲位されたころには、藤原忠平による摂政政治は代かわりし、左大臣藤原実頼、右大臣に藤原師輔という兄弟が朝廷に影響力を発揮する。
自ら政治をとりしきる意欲のあった村上天皇だったけれど、42歳の若さで967年に歿する。

そして、続く天災によって生活が脅かされていた民衆の間に、遊行僧の教えが広がり始める。空也

いにしえより、悪いことが続くと、宗教が流行る・・・。

 

おまけ
・時代概要 義江彰夫
935年から941年まで、天下を揺るがせた将門・純友の乱は、この時代の混乱の象徴。国際的には、907年の唐王朝の滅亡。外からの脅威が薄れていた。社会的には、律令体制の修正が権力形態から土地制度まで展開し、国の形はなし崩し的に律令体制から王朝国家へとかわっていった。そして、兵が現れ、寺社勢力も増していった。
将門・純友の乱終息後即位した村上天皇は、「天暦の治」と呼ばれる新政を再興。乱の終息には、道真と比較的良好な関係にあった藤原忠平が摂関の任について、柔軟に対応したことも貢献した。

 

・服装の歴史 髙田倭男
このころ、大陸的様式から和様へ変化していった。服装だけでなく、古今和歌集』も、漢詩から和歌への変化の一つ。894年、菅原道真の発議によって、宇多天皇遣唐使派遣を廃止したことが影響している。

 

・家具とインテリアの歴史 小泉和子
 古代の貴族住宅の大きな特徴は、1棟1機能。敷地の中にそれぞれ独立して建っていた。伊勢神宮の建物の配置もそうなっている。伊勢神宮の場合、東西二つの敷地に分かれていて、造替の旅に交替につかうが、建物は神が常駐する正殿を囲んで、宝物を納める宝殿、供奉者のための侍殿宿衛屋が立ち並び、さらにこの敷地の外にも幣帛をおさめる幣殿や直会(なおらい)殿とか、御酒殿など、70を越える建物が建っている。また、頂台・椅子(唐の影響)から、再び畳が使われるようになった。

 

・建築の歴史 藤井恵介
794年の平安遷都は、政治的、仏教史において大きな転換をもたらしたが、それと同時に神と社を取り巻く状況も大きく変化した。本来、山背国の加茂氏の氏神であった加茂社は、遷都に従って朝廷との関係を深め、平安京の鎮護社としての性格を強くし、807年には正一位という神位が与えられ、神社としては皇祖神をまつる伊勢神宮につぐものとなった。
加茂社で用いられている本殿の形式は、「流造(ながれづくり)」。
現在の八坂神社は、1868年の神仏分離までは祇園社とよばれ、神社・寺院いずれにも峻別できない特殊な形態をもっていた。明治初年に社殿以外の建物が取り壊され、境内地も約1/4になった。

 

ああ、、明治維新で失われた財産は大きい・・・・。