『つなみ てんでんこ はしれ、上え!』
指田和 文
伊東秀男 絵
ポプラ社の絵本 17
2013年2月 第一刷
『世界をひらく60冊の絵本』(中川素子、平凡社新書)の 「第九章 災害に襲われ、乗り越える」からの紹介本。図書館で借りて読んでみた。
東日本大震災の後、「つなみ てんでんこ」という言葉をニュースで耳にするようになった。津波から助かった子どもたちのお話。
三陸地方の釜石は、東日本大震災以前にも、大きな津波による災害を経験していた。
1869年(明治29年) マグニチュード 8.2 の地震。
1933年 (昭和8年) マグニチュード 8.1 の三陸地震。
地震が起きたら、津波がくるからそれに対処しなければならないということは、この地方の子どもたちはよく教えられていた。それが、「つなみ てんでんこ」
「津波が来たら取るものもとりあえず、 肉親にも構わず、 各自てんでんバラバラに、急いで高台へ逃げろ」という教え。
本書は、その教えにならって、高台に逃げた小学生、中学生達の姿が描かれている。
文の指田さんは、 出版社で子供の雑誌、家庭雑誌などの編集を経たのち、 フリーとなる。 いのちや平和、 自然に関するテーマに惹かれ、 取材し 作品にしている。 阪神大震災の被災者の心を追った作品もある。 東日本大震災では 親類が岩手県釜石市で被災したことから 行き来するようになる。
絵の伊藤さんは、画家・絵本作家。 幼い頃に起きた 伊勢湾台風による浸水の風景を思い出しながら 、また取材で出会った鵜住居(うのすまい)小学校、釜石東中学校の子供たち、先生たちの言葉を思いながら この絵本を書いた。
表紙をめくると、袖には、
” 2011年3月11日。
あの日
もう少しで
5じかん目がおわるところだった。
ビリ、ビリビリ・・・・カタン・・・・
こくばんけしが おちた。
とたんに、からだがズンともち上がった。
「キャー!」
ぼくは、
むちゅうで机の下にもぐった。
ガタン、ガクン・・・・
じしん?”
そして、 震災当日、登校していた生徒全員が生存し、「釜石の奇蹟」とよばれる、両校の子供たちが避難したルートの地図イラストがある。
「山へむかうゆるやかな坂道を、園児をふくめた約600人の子どもたちが2キロにわたり、はしってにげた。」
と、今、よんでいるだけで、鳥肌が立つ。。。
絵本は、よこに長く、見開きに、文字と絵が並ぶ。
地震が起きて、逃げる生徒たち。
中学生の中には、途中でいっしょになった園児をおんぶして逃げる姿。
生徒たちの姿で、埋め尽くされる坂道。
山へ、山へ!
人の流れが続く。
一旦、避難し終えたとおもったものの、大きな津波のようすに、
「さらに、のぼれ!」「にげろ!」
途中、折り畳み式でさらに1ページ分横に広く広げられるページがある。
津波で流されている家の屋根。
”「死ぬかも・・・・」 ぼくは、うまれてはじめておもった。”
そして、
”山から鵜住居の街をみた。
・・・なみだがとまらなかった。
つめたい、しめった風がふいていた。”
津波の水でおおわれた町を見下ろす人びとの姿。
夜、山から下りて、近くの店の駐車場へ避難。
”星が、いつもよりあかるくみえた”
町の電気がきえていたのだろう。。
やがて、釜石の街に向かって歩き出す。
”途中で、トラックがたすけにきてくれたときには、もう、へとへとだった。
トンネルを抜けると、みぞれが降っていた。”
その日、生徒たちは、体育館で夜をあかした。
見開きいっぱい、体育館を埋め尽くす生徒たちの姿。。。
ぼくは、2日後にお父さんに会えた。
がれきのなかを歩いてきてくれた。
ともだちのなかには、まだ、家族が迎えに来ない子が何人もいた。
「家が流されたくらいで、おちこんでたらだめだな・・・」
おとうさんがなくのを、はじめてみた。
そして、人びとがどのように避難してきたのかの話。
ぼくの通っていた小学校は、津波にのまれてつかえなくなり、双葉小学校にかよいはじめる。
七夕には、二つの学校のみんなで、たんざくに願いを書いて、学校いっぱいにかざった。
見開き2ページ、たくさんのたんざくが並ぶ。
「パパとはやくいっしょにくらせますように」
「おかあさんが みつかりますように」
「とんかつたべたい」
「釜石がもどりますように」
・・・・・・
最後は、ぼくがおじいちゃんと二人で海をみつめている。
「 人間は海からめぐみをもらうばっかりで、付き合い方を忘れてたのかもしんねえな。
それをお前ら子供が教えてくれた。命さえあれば、 これから何だってできるものな。」
じいちゃんが僕を見て、にっと 笑った。
おしまい。
こうして絵本になっているから、語り継ぐことができる。
わすれちゃいけないね。
まさに、災害は忘れたころにやってくる・・・。
備えよう。
釜石、私は震災復興支援の避難所栄養指導ボランティアにいったことがある。ボランティアの後、バスで、被災地を見学させてもらった。何もない海外沿いに、防波堤の砂、砂、砂、、、、そして、何台ものブルドーザー・・・。もともとは学校だったのだろうとおぼしき建物。ぽつんと立って止まっている時計。。。ここは、どこだったんだろう、、、人は、ここに戻ってくるのだろうか、、、、という感じだった。
あの時、、、あの時点ですら、私は何と表現していいのかわからなかった。
でも、人は生きている。生きていく。
今日に感謝しよう。