科学はこのままでいいのかな
中村桂子
ちくまQブックス
2022年9月30日 初版 第1刷発行
図書館の棚で目に入った。Qブックスシリーズは、読みやすいので借りて読んでみた。
本の裏には、
” 科学で生活は便利になったけれど、効率や結果ばかり求められるのはどこかおかしくないかな? なんだか息苦しいよね。 だって私たちは機械じゃなくて 生き物なのだから。 基本を変えずに、しかし 驚くほどの多様さを生み出して38億年続いてきた「進化」を軸に、生きもの目線で私たちの未来を考えよう。”
とある。
著者の中村さんは、 1936年 東京生まれ。JT 生命誌研究館名誉館長。理学博士。 東京大学大学院生物化学科修了。 ゲノムを基本に生き物の歴史と関係を読み解く 生命論的世界観の知「生命誌」を提唱し、 1993年 JT 生命誌研究館を創設。
JTの生命誌研究館は、たばこのJTがもつ施設で、私がその存在を知ったのは10年ほど前。なぜ?JTが?自然科学館?と思った。まだ、訪れたことはないのだけれど、サイエンスの知の喜びを一般の人にも共有したいという思想に共感し、その存在が気になってはいた。そして、本書を読みながら、なんだか、JTの施設と思想が似ているなぁとおもったら、著者が、その創設者だった!
科学は、世のため人のため、平和目的で使われなくてはならない。と、私が一科学者として大事にしている思いとちょっと共鳴する。
目次
はじめに どう生きるかを理科の時間にかんがえよう
第1章 20世紀科学の最大の発見の一つ 遺伝子の本体である DNA
第2章 人間は生きものである
第3章 生命科学から生命誌へ
第4章 現代社会の問題点を明らかにする
第5章 便利はとてもよい・・・・だろうか
第6章 進歩ではなく進化を考えよう
第7章 生き物に学び 私たちとして生きよう
第8章 生き物に学ぶこれから
感想。
科学の本というより、社会科の本、、、みたい。
はじめに、「どう生きるかを理科の時間」に考えよう、という著者の言葉が、そのままこの本で伝えたい言葉の一つなのだ。これは、科学の本というより、どう生きるか、という本。
私たちは、機械ではなくて、いきもの、だということ。
いきものは、蟻でも人間でも鯨でも、、植物でもすべてDNAという共通の物質から成立している。多種多様な生き物がいるが、ゾウリムシも、大腸菌も、みんなDNAの仕組みはいっしょなのだ。
1953年、DNAの二重らせん構造モデルを発見したワトソン&クリックというのは、私の世代にとっては科学のヒーローなのだが、昨今では、その発見は女性科学者ロザリンド・フランクリンの撮影した写真をもとに成立したということが広く言われるようになっている。私の頃の教科書にフランクリンの名前が出てくることはなかった。残念ながらフランクリンは37歳の若さで亡くなり、1962年には生存していなかったので、ワトソンとクリックが受賞した「DNAのらせん構造発見」ノーベル賞は受賞できなかった。ただ、当時の科学の世界では、女性だというだけで、生存していても受賞できなかった可能性があるかもしれない。
と、人間というのは、そういう「なまもの」なのだ。
著者が読者に語りかけるのは、「人間は特別」という「上から目線」ではなく、全ての生き物は共通のDNAという仕組みで命をつないでいるのだから、生き物としての「中から目線」で世の中をみようじゃないか、ということ。
第三者的な視点で物を見るのか、自分がその中の構成員の一人としてものを見るのか、これは結構重要な視点。
時には、俯瞰して、第三者的に見る必要もあるけれど、自分たちが地球の中で生かしてもらっているただの生命体の一つでしかない、ということも忘れてはいけない。
DNAの発見や、ダーウィンの進化論というのは、1850年代で、地球の歴史でいうとほんの最近のことだ。
DNAを遺伝子として見て、要素に還元すれば生き物を理解できると考えていた科学の見方を「機械論」とよび、DNAをゲノム(染色体)という全体でとらえ、生き物同士の関わり合い全体をとらえようとするものの見方を「生命論」という。
ペスト、コレラのような病気の原因すらわからなかった時代から、細菌やDNAの発見、ワクチンの開発と科学は発展してきた。でも、やはり生き物は「機械」ではないのだ。
細分化し、機械のようにいきものを理解しようとしてきた歴史は、17世紀の哲学者デカルトにさかのぼる。デカルトは、「もの」と「こころ」を分けて考えた。「もの」は、 人間が見たり触ったりして自分の感覚を通して確認できる。だから、「もの」は、 客観的に存在しているとされる。一方で、「こころ」は、 見ることも 触ることもできないので、 もののようにその存在を示すことはできない。でも、存在していることをデカルトは知っている。
「我思う、ゆえに我あり」(Cogito, ergo sum)である。
とはいえ、見えない、触れないものは、わかりにくい。だから、科学は「もの」だけを扱うようになり、「機械論」が中心となってきた。
分子、原子、電子、素粒子、、、、人は、どこまでも分解して小さくして物をとらえることができるようになった。
分解していったら、、、全体やつながりをわすれてしまった??
20世紀になると、生命科学が活発になり全体をとらえる「生命論」が復活してくる。すると、「もの」にこだわり要素への還元をもとめるのではなく、全体をみるようになり、 従来の自然科学にとどまらず人文、社会科学ともつながり大きな知になっていく。
そういう大きなつながりの目を、社会づくりにいかしていく、それが大事だ、というのが著者の思い。
分割するのではなく、統合していく、、という感じ。
また、著者は、「効率」や「結果」だけが 重要なのではなく、プロセスも大事だ、と。
人間の成長は、 1歳には1歳の時の、2歳には2歳の時の大事なプロセスの重なり。だから、生きている時間の一つ一つに意味があるのだ、と。
20代には20代の、、、50代には50代の成長がある、と私は思っている。プロセスは大事。
そして、ものと違って、人を含めた自然というのは、思い通りにはならないもの。それを忘れてはいけない、と。
便利な洗濯機、掃除機、パソコン、、、思い通りに動いてくれる。動かなくなったら修理する。自然は?思い通りにならない自然を修理する事なんてできない。人間も・・・。
気候変動によって、植物が育つ地域や、魚が獲れる海域が変化してきている。それを修理できる??できない。
その文脈で、食料自給率のはなしがでてきた。日本の食料自給率が世界的にみて極めて低いということ。便利な調理器具を使って、大量に食事を作って、廃棄して、、、ってやっぱり間違っている。
著者は、炭素の循環の話も、カーボン・ゼロという言葉に騙されてはいけない、という。そもそも、みなしゼロって??確かに、CO2排出を抑えることは重要だけれど、炭素を閉じ込めるとか、破壊をとどめることで排出量と相殺なんて都合のいい話は、自然界にはあり得ない。だから、実際には、単に利権問題になっている。そもそも、タンパク質という炭素を含む分子で私たちはできている。脱炭素って?私たちの呼吸には、CO2が含まれているよ。無機物質(炭素を含まない物質)は、鉱物、水くらいではないか・・・。炭素を含まない生き物はいない。DNAは炭素を含む。
みなし相殺ゼロではなく、本当の循環を考えなくてはいけない。
新しく便利な暮らしをあきらめるということではなく、多様性や循環に注目して、全体の中の一員として、地球人としてい生きていく。
それが、大事なことかもしれない。
大事に育てた食物を無駄にしない。生ごみをだせば焼却することでゴミそのものだけでなく、燃料をつかった燃焼でCO2は出てしまう。そうやってゴミにするくらいなら、食べて私たちの血肉になった方が食物も幸せってもんだろう。
余談だが、2024年11月26日付、New York Times のニュースに、
”Taxing Farm Animals’ Farts and Burps? Denmark Gives It a Try.”というのがあった。
家畜のおならややげっぷに課税??確かに、家畜の出す温室効果ガスは多いけど、、、食べているのは人間だろう・・・・。
Qブックスとしては、結構哲学的だった。そもそも、生命誌という思想が哲学なのかもしれない。
科学と地球人として生きること、ちょっと、考えなくちゃなっておもう。
細分化より統合を考えよう。
じつは、日本の社会の弱みも細分化、分割化にあると思う。大学、政府、企業、タテ割りの弊害。専門性は大事だけれど、専門性は全体の統合に活かすことで初めて役に立つのではあるまいか。
会社の中で、部門間でいがみあうなんて、愚の骨頂。でも中にいるとそれが見えなくなる。中から目線と、俯瞰してみる、どちらも大事なのだよ。
俯瞰してみた時に輪郭をクリアにするために、専門性を磨くというプロセスが必要になる。専門性を磨くことに特化することが大事な時間もある。
人生後半は、その専門性を統合し、よき地球人として生きていくことに活かす時間としたいものだ。