「数学する身体」 by  森田真生

数学する身体
森田真生
新潮社
2015年10月15日 発行

 

養老孟司さんや佐藤優さんが、最近の若者で面白い人、ということで森田さんの名前を挙げられていた。私はよく知らなかった 。
図書館で検索してみると、『数学する身体』『数学する人生 岡潔』『計算する生命』などが出てきた。岡潔は、読んだことは無いけれど、数学者だし、タイトルも数学とか計算とか、どうやら、数が好きな人らしい、、、、と、ほとんど前情報を無しに、『数学する身体』を借りてみた。

 

一言、感想。
まぁ、面白い!!!
なんでしょう、このみずみずしさと、情熱と、驕ったところが何もなく、謙虚な中に芯の強さが見え隠れするというのか。 シンプルだけど、深い。pureな感じがする。
本の装丁が、これまた極めてシンプルだ。
文字しかない。
いったい、森田さんって何者?!?!

 

著者の森田さんは、1985年東京都生まれ。独立研究者。東京大学理学部数学科を卒業後、独立。現在は京都に拠点を構え、在野ので研究活動を続ける傍ら、全国各地で「数学の演奏会」や「大人のための数学講座」などライブ活動を行っている。

なんだか、面白そうな人だ。

目次を見ただけで、なんだか、不思議な感じ。

第1章 数学する身体
第2章 計算する機械
第3章 風景の始原
第4章 零の場所
終章 生成する風景

 

第一章で、数を数えるという行為から、数を文字であらわすようになり、インドで算用数字(1,2,3,4,5,、、、)が発明さたという数の起源のはなし。紀元前5世紀の『ユークリッドの原論』が、最初の数字に関する書。ギリシャ数字。それは、哲学のようなものだった。
想像しにくいことだが、このころは、今の数学で用いているような数字も、記号もなかった。

1+2=3
とは、書けなかった時代。
一という数に、二という数をたすと、三という数になる。
という、説法のようなものになる。
数式というものが、存在しなかった。

記号がなかったのだ。「+」も「=」も。

数を扱うというのは、一つの哲学だった。

 

mathematicsという言葉は、ギリシャ語のマテーマタ(学ばれるべきもの)に由来するそうだ。数学=学ばれるべきもの、ということだ。では、学ぶとはどいうことか?
森田さんは、ここでハイデッガーの言葉を引用する。
「はじめから知ってしまっていることについて、知ろうとすること」だと。

わかる。そうなのだ、何も知らないことを知るのと、既に知っていることを新しい目で見直すことは、難易度が全然違う。知っていることを知るほうが難しい。学ぶというのは、つねに新しいことのつもりで知ろうとしないといけないのだ。知っているつもりになると、学びがおろそかになる。知っている事をさらに知ろうとする、その姿勢があると、いくつになっても学びを楽しめる。
自分は、なんでも知っている、なんて思ってしまったら、それほど退屈な人生はないだろうと思う。

そして、数学をするというのは思考であり、数学を使うという行為とセットなのだという。
数学は、ただの数字ではなく、思考と行為を繋ぐもの


上手く説明できないのだけれど、頭の中で思考するとき、何かを認知するとき、脳だけで考えているのではなく、全身の触覚、感覚を使って考えているということ。計算機としての脳の役割は限定的で、それ以外の身体の様々な部位が、思考を支える。
それを、認知科学の哲学者・アンディー・クラークの「漏れ出す」「沁み出す」という表現を使って、森田さんは説明している。
様々な、認知タスクの遂行において、脳だけでなく、身体や環境が一緒に担っていると。思考が脳から漏れ出す、沁み出す。


数学は、数学として数の世界として切り離されたものではなく、心の世界とつながっていると言ったらいいだろうか。


どうにも、上手く説明できない。。。。けれど、森田さんの本を読んでいて、私が惹かれたわけは、脳と脳から漏れ出したものを一緒に考えるというところにある気がする。


数学と情緒。一見すると無関係の様であるけれど、数学と言うのは人間の行為の一部である、というのか、心の動きの一つと言うのか、、、難しい。表現が難しい。

でも、日常で数字を使うのは、何かの行為とセットだというのはわかりやすいだろう。

買い物の最中に合計を計算する、投資先をどこにすると儲かるかを考える、飲み会の割り勘を考える。行為とセットで、かつ、そこには心の動きもセットになる。数学と情緒。多くの人が、ただ数学を計算として触れているのではなく、日常の行為の一つとして触れているはずだ。

いまや、数学は特別な世界ではない。毎日スマホを使うのだって、その中の計算機であり、アルゴリズムを使っているのだから。


第二章で、数学者・岡潔の言葉が引用される。
「過去なしに出し抜けに存在する人というものはない。
その人とはその人の過去のことである。
その過去のエキス化が情緒である。
だから情緒の総和がその人である。」


本書を最後まで読むと、岡潔の「情緒」という言葉に、森田さんが突き動かされた感じが伝わってくる。
そう、本書は、数字の本かと思えば、情緒の本なのだ。いや、「数学と人間」の本なのだ。

数字から数学、計算、コンピューターの世界への変遷も語られている。
算用数字ができてから、幾何学微分積分、集合、、、と、数学の世界が広がる。

1912年生まれのアラン・チューリングは、数学の歴史に、大きな革命をもたらした。「チューリング機械」を発明したのだ。人の脳内ではないところで、「計算」をさせる。
今の時代では、当たり前のこと過ぎて想像し難いが、「計算」する機能を人間の身体から解放した。まさに、コンピューターの始まり。

 

先日、DX関係の講演を聞いていて、「チューリングの時代から、、、」という言葉が耳に残っていたのだが、こんな形で、間を置かずにチューリングの話にであうとは。点と点がつながった。DXというのも、デジタルが、様々な機能を切り分けて「解放」することができたから、機能のレイヤーだけを切る出すことができるようになり、トランスフォーメーション可能になった、と言う話だった。(東京大学未来ビジョン研究センター客員教授・西山 圭太氏)

 

チューリングは、「機械によって知性を構成する」という夢を抱いていた。まさに、世界初の人工知能研究者だったということだ。1912年生まれのチューリングが。
戦争が彼の運命を変えた。ナチスドイツの「エニグマ暗号」の解読に彼の開発した「チューリング・ボム」が使われる。暗号の解読は、人間の「心」と機械の「計算」の協働だった。チューリングには、「心」と「機械」のあいだの架け橋をつくっているような感覚だった。機械が暗号を解くというのは、人間の推論より機械が優秀な事がある、という事のようにチューリングには感じられた。事実そうだった。そして、「人工知能」に関する論文を世界で初めて書いた。ただ、この論文は同僚に配布しただけで、現存しないそうだ。

チューリングは、「計算」と「数学」のギャップを感じてた。それを埋めるのが「人工知能」と思っていたようだ。
「計算」は、数学的思考を支える行為の一つ。
「数学」は、計算ばかりでなく、言葉に言い表せないような直観、意識に上がらないような逡巡、分かること、発見することを喜ぶ心情を含む。

ここでいう「数学」は、高校の科目としての「数学」ではないのだと思う。

そう考えると、「計算」と「数学」にはあまりにも大きなギャップがあり、それを「人口知能」が埋められるのではないかと考えた。まさに、人工知能の発想だ。ただ、彼の思考も行動も、ちょっと世間からはずれていた。
その後、チューリングの関心は、生物の生成の仕組みの解明に移っていくが、志半ば、41歳、自宅のベットで青酸カリで死亡する。自殺、他殺、事故、不明らしい。

チューリングの、「計算から染み出た心情のようなもの」を解明しようとした試みは、岡潔が数学の中心にあるのは「情緒」だ、ということと近い、と森田さんは感じている。

まさに。
ホントに、うまく表現できないのだけれど、よくわかる。

アラン・チューリング岡潔の共通点は、心の動きを対象にして、科学的に研究している。数学をつうじて「心」の解明へと向かったのだ。

すごい。

 

高校生の頃、私は、数学が好きだった。
数学だけやって稼いでいけるなら、数学研究者でもいいと思うくらい、好きだった。
でも、進路は生物系に進んだ。
数学だけでは満たされない、何かがある感じがしたから。
それは、もしかすると、「情緒」だったのかもしれない。

数学を通して「心」を解明しようだなんて発想、まったくなかった。

 

森田さんにとって、「数学とはなにか」「数学にとって身体とはなにか」との探求の原点は、岡潔(1901~1978)だという。
森田さんは、もともとは文系の学部だったが、数学好きの友達の影響で数学に嵌っていく。そして、岡潔の『日本のこころ』に出あう。そこには、「わかる」について、全身の実感のこもった言葉が並んでいた。マセマティクスだ。森田さんは、岡潔の言葉に、生きた身体の響きを感じたという。
数学に「没頭」しているうちに、「真実」を「体得」するという、感覚。
「この人の言葉は信用できる」という直観。

 

本の後半は、岡潔を軸に、語られていく。
岡潔の人間観と宇宙観。
芭蕉に触れた時、「感覚ではなく情緒だ」という直観。
「多変数解析関数論」という、世紀の大発見の論文で一躍世界の数学者となった岡潔は、人生の後半は、自己研究に入っていく。数学研究がすなわち自己研究だった。
20世紀の数学は、実感と直観の世界から乖離していく傾向だった。それに対して岡は、「情緒」を中心とする数学を「わかろう」とした。
その彼の数学を支えたのが、芭蕉の生き方と思想だったという。

 

語りつくせない、理解しきれない、でも、何かが心に刺さってくる。
そんな一冊だった。


岡の言葉から、
「職業にたとえれば、数学に最も近いのは百姓だと言える。種子をまいて育てるのが仕事で、そのオリジナリティーは『ないもの』から『あるもの』を作ることにある。数学者は種子を選べば、あとは大きくなるのを見ているだけのことで、大きくなる力はむしろ種子の方にある」

零から創造すること。
種子の可能性。
種子を育てる大地、太陽、水、人。

 

森田さんも面白いけれど、岡潔も興味深い。

こんな世界があったとは知らなかった。

マインドマップがいつになく難解になった。

 

気になる本は読んでみるのがいい。

世界は広い。

自分の半径の小ささを実感する。

本を読んで新しい世界を発見する。

安上がりで手短な旅だ。

 

読書は楽しい。

 

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「数学する身体」 森田真生