岩波書店の「図書」という雑誌。月に1冊送られてくる。知人が長年愛読しているといっていたので、2022年になって私も購読し始めた。
年間購読を契約すると、1000円。送料込み。
薄い冊子だけれど、岩波書店の新刊案内だけでなく、様々な人のコラムがあって、なかなか面白い。
そして、その4月号に、「朔太郎の『猫町』」(司修)という項があったのだ。
詩人・萩原朔太郎にまつわるコラム。
そのコラムを読んだ翌日だっただろうか、図書館で本書が目に飛び込んできた。
借りてみた。
「どんな旅にも興味とロマンスを無くしてしまった」という主人公が、「独特な方法による、不思議な旅を続けている」という。
『猫町』は、その主人公が、不思議な街に紛れ込んでしまうお話だ。人間の姿をした猫。猫の姿をした人間?
本書『猫町 他十七篇』は、朔太郎の散文・小説・随筆を集めたもの。中身としては、朔太郎の色々な作品集、という感じ。
なんだか、読んでいて、ほっとした。
萩原朔太郎といえば、いわゆる明治から昭和にかけての人。本書におさめられた作品の中にも、友人、芥川龍之介の自殺の話が出てきたり、川端康成とか、宇野千代とか、、、そういう時代の一人だ。
読んでいて、懐かしいような、ほっとする感じがあるのだけれど、古臭い感じがしない。
たしかに、『猫町』の主人公も、幻覚をもとめて薬物(モルヒネ、コカイン)を多く用いる、、等と出てくるあたりは、現代では考えられないことなのだけれど、、、。今の時代に書かれた小説と言われても、違和感がない。不思議な感じ。
「ノスタルヂヤ」という言葉が出てくるのだが、まさに、そんな感じだろうか。
ノスタルヂヤ、なかなか、普段使わないけど。
全部で17編。
『猫町』で描かれているのは、幻想の世界なのか、幻想も本人が信じてしまえば現実なのか、、。
見慣れたはずの街が、まったく違う風景に見えてしまうとか、ふと、知っているはずの街がまったく知らない街にみえるとか。いつもと変わらない風景の中に、一瞬、キラキラひかるような美しい何かが見えた様な気がするとか、、、。
経験したことがあるような気がする。
それが、ノスタルヂヤと感じさせる所以か。
デジャブともちがうのだけど。
本書の中におさめられた、『猫町』以外の作品も、詩だか随筆だか、分からなくなるような気もするのだけれど、なんだか、、、心が穏やかになる。
そもそも、私は、随筆の類が好きなんだな、とつくづく思った。
いくつか、心に残った言葉を覚書。
タイトル:詩人の死ぬや悲し
朔太郎が、救いのない絶望に沈んでいる芥川龍之介を慰めるために言った言葉。
「でも君は後世に残るべき著作を書いている。その上にも高い名声がある。」
慰めるつもりだったのが、龍之介は顔色を変えて激しくいった。
「著作?名声?そんなものが何になる!」
名声なんて、幸せとは関係ない。
そうだ。そうなんだ。
でも、人の名声を羨んだりしていないだろうか、、、なんて思う。
龍之介は、何を求めていたのだろうか。
タイトル:この手に限るよ
どんな女でも自由に手なづけることができる素晴らしい技を、思いついた。
紅茶の中に、角砂糖をさも勿体らしく、意味ありげの手つきをしてそっと落とす。
みるみる角砂糖は解けていく。
そして、小さな気泡が茶碗の表面にあがり、やがて周囲のへりに寄り集まった。
もう一つ加えても同じように気泡が立ち、やがて周囲のへりへ寄り集まっていく。
その気泡の姿が、マスゲームのように美しい。
それを喫茶店の給仕女に得意げにみせて、我ながら素晴らしい技だと。
給仕女は、「まぁ、素敵ね!」と。
と、友人にこの技をもって、「この手に限るよ」と、滔々と語って見せる自分。
そこで、目が覚める。夢だった。
夢から覚めて、自分の得意満面差に、吹き出す・・・・。
なんか、ホントの話なのかわからないけれど、いい。
この、無意味さがいい。
そういえば、角砂糖。最近みなくなった気がする。。。
「お砂糖、何杯?」
「お砂糖、何個?」
どっちも聞かなくなった気がする。
味気ない、3gないし、5gの個包装の時代になってしまった。
むかし、角砂糖のうえに砂糖菓子で模様とかかいてあるのとか、形が薔薇の花でピンクに色付けされているのだとか、、、みなくなっちゃったなぁ。。。
角砂糖も、過去の遺物なのか。。。ちょっと、寂しい。
海外旅行のお土産にも、よくあった気がする。使うのがもったいない可愛い角砂糖。
タイトル:秋と散歩
「前に私『散歩』という字を使っているが、私の場合のは少しこの言葉に適合しない。いわんや近頃流行りのハイキングなんかという、颯爽たる風情のある歩き方をするのではない。多くの場合、私は行く先の目的もなく、方角もなく、失神者のようにうろうろと歩き回っているのである。そこで『散歩』という語が一番適しているのだけれども、私の場合は、瞑想に耽り続けているのであるから、仮に言葉があったら、『瞑歩』という字を使いたいと思うのである。」
いいな、瞑歩。
わたしも、そういうの大好きだ。
タイトル:老人と人生
龍之介の自殺の原因の一つに、彼の美的『観念の極度の強さ』があり、老獪をさらすのを嫌がっていたからではないかと。。だがしかし、朔太郎は、
「だが老いということも、実際にはそれほど悲しいものではない。むしろ若い時よりはある意味で遥かに楽しいものだということを、僕はこの頃経験によって初めて知った。」
と書いている。
うん、分かる。
40歳では40歳の、50歳では50歳の、楽しみがあるのだ。
決して、30代では気が付けない楽しみが。
年を取るのも悪くない。
そして、
「どんな人間でも四十歳五十歳の年になれば、おのずから相当の蓄財と社会的地位ができてくるので、一層心に余裕ができ、ゆったりした気持ちで生を楽しむことができるのである。」
うん、分かる。
若さゆえの焦りとか、生き急ぐ感じがなくなったって感じかな。
朔太郎は、55歳で肺炎でなくなっているのだけれど、きっと50を過ぎたころの随筆なのだろう。離婚があったり、色々と大変な事もあった人生だったらしいけれど、きっとそれでも、生を楽しむことが出来ていたのだろう。
そういう、心のゆとりが、読み手に安心感を与えるのかもしれない。
また、おなじタイトルの随筆の中で、
「しかし、苦悩がないということは、常にその一面において、快楽がないということと相殺する。」とも言っている。
うん、ごもっとも。
しまいには、仏陀やショペンハウウェルの話になっていく。
最後に、
「とにかく老年を楽しむためには、まだまだ僕は修行が不足で、十分の心境に達していないことを自覚している。」
と。
面白い一冊だった。
清岡卓行の解説に多くのページが使われている。
朔太郎、入門集。みたいな感じの一冊。
岩波文庫の楽しみの一つって感じ。
解説含めて163ページという薄い一冊。
旅の友にいい感じかも。
萩原朔太郎、実はあんまり読んでいないかもしれない。
のんびりしたい気分の時に、いいかも。
読書は楽しい。