『猫に学ぶ  いかに良く生きるか 』 by ジョン・グレイ

猫に学ぶ  いかに良く生きるか
ジョン・グレイ 著
鈴木晶 訳
みすず書房
2021年11月1日 第1刷発行

 

何かの書評でみて、面白そう、と思って図書館で予約していた。結構、長いこと待った。
著者のこともよく知らずに、”猫”に惹かれて借りたのだが、なんと、本文中に養老孟司さんのコメントがでてきた。そして、裏表紙の説明にも引用されていた。

 

裏表紙には、
”私が猫と遊んでいるとき、私が猫を相手に暇つぶしをしているのか、猫が私を相手に暇つぶしをしてるのか、私にはわからない。」これはモンテーニュの言葉。
 政治哲学者ジョン・グレイは本書で、何世紀にも渡る哲学や、コレットハイスミス、谷崎なの小説を渉猟し、人が猫にどう反応し行動するかを定めてきた複雑で緻密なつながりを探究している。
 その核心にあるのは猫への感謝の念だ。なぜなら、どんな動物にもまして猫は、人間という孤独な存在にも備わっている動物本能を感じさせてくれるからである。

しばしば数十億円単位の実験室を持っている自然科学者から見ると、哲学者は自分の脳ミソしか持たない典型的なプロレタリアである。その貧乏人に猫という小さな道具を与えてやったら、立派な哲学者と人生論が生まれた。人生の重荷を感じている人には、本書を読むことが救いにはならなくても、最低〈気晴らし〉にはなると思う。猫好きにとっては面白い上に感動的でもあり、つい読み切ってしまう。」養老孟司
と。

 

 猫好きの、猫愛の話かと思ったら、ちがった。確かに、猫愛がある。でも、哲学の本だった。ショーペンハウアースピノザモンテーニュヴィトゲンシュタインアリストテレスムハンマド。。。哲学に宗教にと、なかなか読み応えのある一冊。ゆるいタイトルだと思ったけど、中身は、ゆるくもあり、深くもあり、思わず読み込んでしまう。そんな一冊。

 

目次
1 猫と哲学
2 猫はどうして必死に幸福を追求しないのか
3 猫の倫理
4 人間の愛 vs 猫の愛
5 時間、死、そして猫の魂
6 猫と人生の意味

 

猫好きだった過去の偉人たちの話が出てきたり、小説のなかで大きなポジションをもつ猫を描いた作家がでてきたり、話の中心に猫がいる。

 

著者のジョン・グレイは、1948年生まれ。イギリスの政治哲学者。オックスフォード大学で博士号取得後、オックスフォード大学、ハーヴァード大学、イェール大学その他で教鞭をとり、2008年に引退するまでロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授。

著書に、『グローバリズムという幻想』などがある。

 

著者は、人間だけの問題として、「死への恐怖」を指摘する。動物は、犬も猫も、牛も馬も、「死」を想像して恐れたりしない。人間だけが想像して恐れる。だから、哲学や宗教が必要になり、ギリシャの時代から今に至るまで、宗教論、哲学論が盛んで終わりはこない。
そして、死とともに訪れる忘却は、人間であることの特権の一つであるとも。

そんな人を猫と比較しつつ、哲学が展開されていくのが本書。

最後には、いかに良く生きるか、猫に学ぶヒント10が記載されている。猫的生き方?指南書、って感じだ。ヒント全部やったら、猫になっちゃうよ、、、って感じ。

 

だれもが、猫的生き方に共感するわけではないかもしれないけれど、うん、たしかに、この本は気晴らしになる。哲学書だけれど、まぁ、難しく考えなくていいんだな、という気になる。

 

猫は、ボスやリーダーを生み出さない。いかなる社会集団をも形成することは無い。だから飼い猫も、飼い主に服従するわけではない。それは、ペットとしての犬との大きな違い。犬はリーダーを必要とするから、飼い主がリーダーになる。
犬好きと猫好き。相手が服従するかしないか。大きな違いだ。本書の中では、企業の経営者などは犬、大型犬を飼う人が多く、哲学者や作家は猫を飼う人が多い、、と言っている。
確かになぁ。。。

私は、犬も猫も飼ったことがないから、本当にどっちが好き?と言われても答えがないけれど、どっちかというと猫の気がする。

 

本書によれば、猫というのは、中世においては人間に虐待されてきた、というのだ。魔女狩りのあった時代、猫も魔女と一緒に殺害されたそうだ。よくわからないのに邪悪な存在として魔女され、殺されていった女性たち。猫も同様に、よくわからないけれど憎悪の対象となって虐殺されることがあったという。そして、著者は、本質的には羨望の裏返しが魔女狩りや虐殺になったのでは、という。かつ、虐殺をカーニバルとしていた中世においては、人間にとってはそれも一つの気晴らしだったのだ、、、と。動物の虐待が気晴らし、、、そんな恐ろしい時代もあったのだ。もっとも、魔女狩りはもっと恐ろしいけれど。史実である。

人は、つねに気晴らしを求めて生きている、、、ということか。

パスカルは、「気晴らしは人間にしか見られない特質」といっている。
動物と人間の違いは、道具とつくるとか言葉をしゃべるとかなんかではなく、「気晴らし」をすることだ、と。道具ならチンパンジーやカラスも使う。言葉なら、イルカだってコミュニケーションする。求愛のさえずりもある。

 

西洋の主流の伝統で、人間が他の動物より地位が高いのは、意識的な思考ができるからとされていた。アリストテレスは、「良き人生」とは宇宙について熟考することといい、キリスト教は神を愛する事、と説いた。どちらも、意識することを説いている。一方で、老子荘子の説いた道教では、意識しないことを説く。禅も無を説く。

 

そうか、意識する世界、意識しない世界。意識しない世界って、東洋思想の世界だと思われているんだ。。。と、あらためて気づく。無って、意識しないってことだ。それって、西洋とは全く違うんだ、、、と、今更、気が付く。。。。

 

猫の話から、さまざまな哲学者の思想の話に展開する。


スピノザは、プラトンのいう「人生は意識的になればなるほど完璧に近づく」を支持した。でも、実際のスピノザの考えは、道教に近い。スピノザは、「異端審問」による迫害と強制的改宗を避けるためにイベリア半島から逃れたユダヤ人の家系だ。伝統的キリスト教ユダヤ教とは異なる倫理で人生を考えた。すると、意識しないことを是とする禅の世界に近くなった。それは、猫の世界に近い。
ニーチェは、そのスピノザを崇拝した。
ニーチェのいう権力への意思は、ショーペンハウアーのいう普遍的な生きる意志の裏返し。ショーペンハウアーは、生への意思がもたらす苦しみを嘆き、ニーチェは意思がもたらす闘争を礼讃した。
ニーチェより前に、トマス・ホッブスは、人間には絶えず権力欲があるといった。
そして、この権力への欲望は、他の人々への恐怖に起因する、と。

スピノザは、人間はもしじゅうぶんに理性的であるならば、死について全く考えないでいることもできる、とした。
自由な人は死について考えることが一番少ない。彼の知恵は死ではなく生についての思索である。」と。自由な人は、死の恐怖に左右されない人。死の恐怖に左右されない、つまりは、猫、か。


そして、利他主義という言葉は、近代の発想だという著者の言葉にはっとした。「利他主義と良い人生の結びつきは自明のようでいて、新しい。古代ギリシャにはない。」と。「他」のかわりに、「神」がいた、ということなんだろう。

 

たしかに、禅の世界でも、利他を教えるわけではない。あくまでも「自分のままでいること」そのためには、自我をもとめるのではなく、自我を消して、真我をもとめる。そのために「無」になれ、と言われる。無になって真我を求める。真我はつくるのではなくて、もともと生まれた時からあるもの。日常ではその真我を失いがちだから無になって見つめなおせ、というのが禅の教えだろう。


自分個人の本性を実現するという倫理は、自己を創造するという考えとは違う。人間がみずから自己だと思っているものは、じつは社会と記憶がつくりあげた物だから。自我は作り上げられた物ということ。
人は、幼少期から自分のイメージを形成する。その自己イメージを保存・強化することで幸福を追求する。でも、そのイメージが現実と乖離してくると、、、そこに、自己への不満が発生する。自我が自分を苦しめる。


人間以外の動物は、自己イメージのような幻影をもたないのだから、自己への不満も持たない。彼等にとっては、体がもっている生命力そのものが自己なのだ。

猫は、利他を良き生活としているわけではない。猫にとっては、彼らが感じ、嗅ぎ取ったモノそのもが良き人生。猫生。
人も、利他が良き人生なのではない。利他を目指すのではない。気が付かずに利他であれば、その方が徳が高いのだろう、と著者は言う。なるほど。深い。利他であろうだなんて、おこがましい。まずは、自分と向き合え、ということか。

 

アリストテレスの言葉がなかなかしみる。
慎重さに欠ける人は、他のどんな美徳をもっていようとも、幸福にはなれず、何をしようと無駄に終わる。

それと同じように年じゅう怯えている猫は、良く生きることはできない
勇気は、人間の美徳であるのと同じく、猫にとっても美徳である

 

本書では、西洋だけでなく、日本人も引用している。谷崎潤一郎は、エッセー『陰翳礼讃』で「美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考へる。」と書いている、と。
真の美は、創られた完璧な世界にあるのではなく、自然化や日常生活の中にあるのだと。
著者は、谷崎の『猫と庄造と二人のをんな』に他種多様な愛が何であるかを描いているという。そこは、また、猫が主役の世界だ。元夫とその新しい妻に、飼っていた猫をくれと頼む元妻。元妻への愛はなくなっても、一緒に飼っていた猫への愛はなくならない元夫。
そんな、話。

他にも、いくつか、猫が人間の男女のあいだに大きな存在感を表す物語が紹介されている。西洋でも、日本でも、猫は猫だ。猫に振り回されるのは人間だ。犬ならこういう物語はできない。


猫が教えてくれる人生哲学の一つは、「人生とは気晴らし」なのかもしれない。猫は、気晴らしなんて考えない。気晴らしを必要とするのは人間だけ。。。
あぁ、そうか。人生そのものが気晴らしだと思えば、気晴らしなのかもしれない。。。

サラリーマンを辞めてみると、気晴らしに仕事でもするか、、なんて思ったりしてる自分に気が付く今日この頃。。。仕事しなきゃダメ人間になる、、みたいな焦燥感もなくはないが、あせったり、憤ったり、よろこんだり、たのしんだり、、、すべて気晴らし、、と言ってしまえば、もともこもないけど、、、。そう思えれば、楽になることもあるかも。


そうか、だから、養老先生も、”気晴らしにはなる”、、とおっしゃる。すべてのことは気晴らし、、、。フーテンにぴったりな言葉だ。 

 

ネコに学ぶヒント10は、一言でいえば、「人生は気晴らしでもいい」ってことだ。

 

そう、たまに気晴らしに悩んだり、考えたり。

それでいい。

ってことらしい。

谷崎潤一郎が読みたくなった。

それも、気晴らし。

 

猫にはなれないけど、猫に学ぶのはおもしろい。

読書は楽しい。

 

『猫に学ぶ いかに良く生きるか』