『マンガ日本の歴史 2 邪馬台国と卑弥呼のまつりごと』 by 石ノ森章太郎

マンガ日本の歴史 2
邪馬台国卑弥呼のまつりごと
石ノ森章太郎
中央公論社
1989年12月5日 初版印刷
1989年12月18日 初版発行


『1.秦・漢帝国と稲作を始める倭人』の続き。

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1では、 卑弥呼が登場する前までの、ムラからクニがつくられていくところ。そして、2では、卑弥呼登場から卑弥呼の死まで。

 

目次
序章 卑弥呼
第一章  倭国の大乱
第二章 親魏倭王卑弥呼
第三章 卑弥呼よ、永遠に

 

ポイントの覚書。

2~3世紀、弥生後期、倭国は、クニ同士が争い合って、混乱の極みに陥った。稲作は、用具の鉄器化や半乾田から水田への変化で生産性が向上。 高床式倉庫が普及する。共同体の富の蓄積が倉庫という保存システムを確立ほど安定していたということ。

ムラは、環濠をつくり、軍事拠点としての特徴をもつ特殊なものになっていく。そして、クニ同士の大混乱。100余りあったクニは次第に統合されて30余りとなったが、統合の過程で欲望に取りつかれた王たちは、争いの激しさを増していった。倭国、大乱の時代。

 

なんて、やばんな時代だったんだ・・・・。


徐々に、邪馬台国が30か国の盟主にのし上がっていったが、狗奴国(くなこく)は最後まで強く邪馬台国と敵対し、戦火は衰えない。クニによっては、内乱によって王がクニの民衆に殺されるという事態まで。さすがにこれではいかん、ということでクニの王たちがあつまって、列国会議を開いた。

 

むむ、、、列国会議を開いたというのは、歴史学者の仮説か?

後漢書』倭伝では、”倭国おおいに乱れ、更々相攻伐し、歴年主なし”とある。列国会議の出典は不明。だけど、とにかく、会議を開いて、クニを統一しようという方向へ。

 

当時、邪馬台国の王は、伊支馬(いきま)だったが、彼もすでに民衆の信頼はおちつつある。そこで、神様に訊いてみた。すると、
「王は、男にあらず!
 王の名は、卑弥呼!」

ということで、卑弥呼に白羽の矢がたつ。そこで、クニの王たちは、卑弥呼に王になってくれとお願いに行き、卑弥呼はそれをしっていたかのように、女王になることを受け入れる。(この辺りは、フィクションっぽいな。。。。)
そこから、卑弥呼の統治による邪馬台国が始まる。ただ、卑弥呼は女王となってからは人々の前に姿を現すことはなく、政は、卑弥呼からその弟に告げられ、弟が民衆に告げた。

ただ、それで、倭国の混乱が収まったわけではなく、たびたび、内乱は起きていた。そこで、卑弥呼は、大陸に援助を求める。当時の中国は三国志」の時代
曹操の「魏」、孫権の「呉」、劉備の「蜀」の三国。

三国志』では、劉備がヒーローで、そこには、関羽張飛諸葛孔明がいる。だが、卑弥呼が選んだのは曹操の「魏」だった。三国志の中では悪者あつかいなんだけど、、、。

239年、卑弥呼は、難升米(なしめ)と都市牛利(としぎゅうり)の二人を魏に送る。そして、240年、二人は帯方郡(たいほうぐん、朝鮮半島)の太守である弓遵(きゅうじゅん)と、魏の建中校尉の梯儁(ていしゅん)を伴って帰国する。
このときに邪馬台国の位置のなぞは、本書の中でものべられている。

伊都国から水行10日、陸行1月
さて、、、どこだろうか???

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卑弥呼は、魏から「魏親倭王」の封号(冊封体制のなかで与えられる爵位称号)を授かった。また、賜物は他にも銅鏡や白絹などなど大量にあって、卑弥呼の超越的な神性を知らしめるには十分のものだった。とくに、鏡は、神が宿り映り出すものとして敬い畏れられていた。それが100枚あったのだ。卑弥呼、おそるべし。

そして、邪馬台国と大陸との貿易はさらにたかまり、「市」も発生する。また、そこから民衆同士の小競り合い、権力争いに発展し、再度、魏に支援を求める。

魏から送られた「黄幢(こうどう)」(魏の軍旗)をもって、狗奴国に対して勝利をおさめた邪馬台国だったが、卑弥呼もとうとう死を迎える。

卑弥呼の死後、男王がたったが、激しい王権争いでふたたびクニは混乱。卑弥呼の宗女(同宗(一族・血縁・姓)の女性。特に世継ぎとされる女性を指す)である13歳の壱与(いよ)が共立されて王となる。

そして、その後、邪馬台国の記録はふっつりと消える・・・。
と、2は、ここまで。

 

おまけの解説

弥生文化の多様性 (義江彰夫
 弥生文化は、縄文人の自己発展だけではなく、渡来人集団の移住と稲作導入が縄文人接触してできたのであろう。
 地域としても、九州から近畿、中国・四国地方、と広かった。東海以東にも弥生文化はおよんだけれど、縄文からの独自の文化ものこっていった。
邪馬台国が北九州か、畿内かは、いまだ、なぞ。

 

卑弥呼の衣服 (高田倭男
 弥生時代には、織物製作技術が渡来した。(マンガの中では、卑弥呼が機織りをしている姿も)。卑弥呼は、呪術をもって支配する人であったので、一般の人とはことなる服装をしていたと思われる。そして、その素材はシルクであったろう、と。

 

炉とかまど (小泉和子
 縄文時代は、「炉」をつかったバーベキュー料理だったのに対して、弥生時代は、住宅も高床住居にかわり、「かまど」が出現した。

 

弥生時代の建築技法 (藤井恵介)
 柱を立てる。柱の上に横材をのせる。床をはる。とくに、竪穴式住居から高床式住居になったので、地面からかなり高い所に床をはるという変化がおこる。床用の横材も使われた。屋根をかける。雨の多い日本の屋根は、平らな屋根はありえず、三角形の屋根だった。そして、そこに屋根を葺いた。葺材は、茅、檜、杉、なども使われたらしい。瓦が導入されるのは、6世紀に仏教がはいってからのこと。

 

へぇ、、、、って、今回も新たな発見あり。

 

仏教伝来と、建築様式の変化、これは私にとっては発見。寺院をたてたんだから、そりゃそうか。

 

邪馬台国卑弥呼が死んでから、しばし、日本の歴史は空白となる。それも、不思議なものだけれど、そもそも邪馬台国の頃の歴史も、すべて、中国の歴史書の記載による情報。日本列島は、かつて中国の冊封体制にはいっていたのだ。まさに、卑弥呼がやったのは、冊封に対する朝貢そのもの。Tributary system of China。文字があったからこそ、記録が残っているということ。文字の影響おそるべし。

 

邪馬台国なんて、もう、聞き飽きたってくらい色々見聞きしてきたけれど、今更ながら、魏へ使いをおくったというのは、三国志時代の曹操の魏だった!っていうのも、私の中では点と点がつながった。そして、大陸と朝鮮と日本の関係性は、この時代から続いているのだ、、、。

 

やっぱり、歴史はまだまだ学ぶ楽しみがある。

知らないことがあるというのは、学ぶ楽しみがあるということ。

 

読書は楽しい。