伊勢の海千尋の底の一つ石
今朝教えていただいた禅の言葉。和文、日本を舞台とした言葉で、伊勢神宮を舞台とした公案。白隠禅師の言葉。
伊勢の海 千尋の底の一つ石 袖をぬらさで 取るよしもがな
師 弟子に問う 「境界で見よ」
伊勢神宮の鳥居の石かけらみたいなものが、海の底に残っている。これを袖を濡らさないでとることができるか?という公案。理屈ではなく、どうするのかを考えてみよ、と。言葉ではなく、境界(きょうがい)でみよ、と。
ここでいう、「境界」は、境遇というよりは、認識作用の対象、といった仏教用語の意味だろうか。
今朝のお話は、特に解説があるわけではなく、自分で想像してみてください、、ということだった。
そして、ヒントとして同じような公案として紹介いただいたのが次の言葉。
「舌を使わずに噺をして見よ」
「今の芸人は、人が喝采さえすれば、すぐにうぬぼれて名人気取りになるが、昔の人は自分の芸を始終自分の本心に問い掛けて修行したものだ。
しかし、いくら修行しても噺家であれば、その舌をなくさない限り本心は満足しない。その舌をなくす法は、禅をおいてほかにはない。」として、無字の公案で指導し何度も桃太郎の話をさせた。
そしてある日、「今日の桃太郎は生きているぞ」と許し、円朝に「無舌居士」の号を付与した。
ちょうど1年前、同じ言葉を教えていただいた。
今朝この言葉を聞いて、前にも聞いたことがあるとは思った。でもどういう意味だったか忘れていた。
そして、新しく自分の中でこういうことなのかな?という考えが浮かんだ。
「手段にこだわるな。」
ということでもある気がした。
あるいは、
「人からの評価にこだわるな」
でもあるかもしれない。
本心とは、なにか。
大事なのは、中身。
やっぱり、内面なのだ。
こうして言葉にして綴れなくても、自分の中でとことん問い続ければいいのかもしれない。
内なる問いを、言葉にすることで頭の中を整理する。
言葉にしてみることで、確信あるいは違和感を感じることができる。
それも、その時の確信であり違和感でしかないのだけれど。
世の中に絶対なんてものはない。
今日の確信は、明日の違和感にかわるかもしれない。
それでも、「今ここ」を大事にして考えることしかできない。
凡人としては、今日も一生懸命考えてみる。
そして、今日できることをがんばってみよう。
10月1日。
神無月。
神様のお留守の間に、死に物狂いで頑張ってみる。
できることを、がんばろう。
それでいい。