『岡潔対談集』 by  岡潔、司馬遼太郎、 井上靖、 時実利彦、 山本健吉

岡潔対談集
岡潔(おかきよし)
司馬遼太郎(しばりょうたろう)
井上靖(いのうえやすし)
時実利彦(ときざねとしひこ)
山本健吉(やまもとけんきち)
朝日文庫
2021年05月30日 第一刷発行

 

岡潔シリーズ。

図書館で「岡潔」で検索したら出てきて、新しかったので借りてみた。

表紙の裏には、
司馬遼太郎井上靖、時実利彦、山本健吉、まさに談論風発、「こころ」を軸に歴史から文学、大脳生理学、俳諧まで。各界「知のの巨人」たちと深く語り合った博覧強記の数学者による初の対談集ここになる。岡潔の思想の真髄を語った講演「こころと国語」を巻末に付す。

 

それぞれの対談には、1966年~1970年に行われたもの。巻末にことわりがあるように、現代の人権感覚に鑑みて差別的ととられかねない発言があるが、「語り手に差別の意図はなく、故人であること、発言当時の時代背景と感覚を考慮し、対談自体の価値を尊重し、加筆修正は行わず、原文のままといたしました」とある。

4人の方との対談。
私は、司馬遼太郎井上靖しか知らなかった。
岡潔が1902年生まれであるのに対し、司馬遼太郎1923年、井上靖1907年、時実利彦1909年、山本健吉1907年生まれ。
当時の感覚からすると、みなさん、だいぶ先輩の岡さんとの対談であり、皆さん最初は恐縮至極、、、という感じの対話から始まる。でも、話の焦点がしぼられていて、専門外の私が読んでいても、愉しめる対談集だった。

 

司馬遼太郎との対談タイトルは、「萌え騰がるもの」。
司馬さん自身の戦争体験から、死ぬことと生きることは紙一重であるという話。日本人が幕末・明治のころにもっていた「やさしさ」について。「やさしさ」は神道にある素直さからくるのではないか、と。
司馬さんが岡さんに「禅についてどうかんがえるか」と問えば、
「禅の原理は、道元禅師の『正法眼蔵でしかおしえていない。あるいは、白隠禅師か」と。そして、
日本における禅というのは、神道とおなじこと」といっている。神道も、禅も、理屈は教えてくれない。ただ、行って見せるだけ。だからこそ、だれでも禅が出来るわけではなく、本当に禅をできるのは、10万人に一人だと。

そういわれると、私自身、凡人であることに引け目を感じずにいられる、、、。あぁ、なんて小さいんだ、私。でもいい、普通に普通でいい。凡人なりの目標でやっていく。

日本の天皇の存在については、明治維新のために利用されてきたのだと岡さん。そして、
国学者平田篤胤、あそこから間違ってきていますね。また、宋学尊王攘夷の王というのを日本の天皇にあてはめた朱子学陽明学の徒もやはり間違っている。しかし、平田篤胤がもっともいけません」
と。

へぇ、、、岡さんも、朱子学とか平田篤胤とか、好きじゃないんだ。

平田篤胤については、以前『本居宣長』を勉強会でとりあげたときに、「だって、みんな平田篤胤のこと嫌いだもん」という話がでてきた。嫌われものなんだ。国学者というのはよくわからない存在だけど、時代によっては、都合よく歴史を解釈したってことなのか。。。

でもって、
「平田門下の国学者は、一グループ働くのですが、島崎藤村『夜明け前』の主人公をみても想像できますように大した働きじゃありません」と、岡さん。

へぇぇ、、、。『夜明け前』って、そういうたぐいの話だったんだ。中山道の馬籠宿に、島崎藤村記念館があるらしく、ちょっと興味をもっていたのだけれど、よく考えたら『夜明け前』をちゃんと読んだことがない。。。今度、読んでみようと思う。


井上靖との対談タイトルは、「美へのいざない」
井上靖の『夜の声』が取り上げられ、「魔物の正体がわからんから困る」という言葉を岡さんが気に入った、としきりに言っている。
井上靖の『夜の声』、まだ読んだことがないので調べてみた。

Amazonの紹介文をいんようすると、
”交通事故で負傷した万葉研究家の千沼鏡史郎は、深夜、病院の一室で神の声を聞いた。「人間の心を正せ、世の紊れを直せ!」今や汚辱と虚偽に満ち満ち、魔ものどもの跳梁するこの世に闘いを宣し、万葉の浄らかな心を取りもどさねばならぬ――崇高な使命を自覚した彼は、家人の目を盗み、最愛の孫娘を連れて旅に出た……。ほのかなユーモアの底に現代への鋭い批判をこめた異色作。”
と。

世の中にはびこる何かいただけないものを、「魔物」とし、その者の正体がわからないから困る、ということなんだろう。岡さんは、「文明というイムズ」が魔物なのではないか、ということを語っている。
そして、「歌」、「古事記」から、「旅情」の話へ。タイトルにある「美」は、歌にも旅にもある。そして、完全でないから美しいものもある、と詩や破損仏の話に。詩も美術も、誰かがいいと言ったから読んだり観たりするのは、「だれかの食べたものを食べるようなモノ」と岡さんが言っている。
面白い!わかる、それ!!
有名な作品の展覧会、盛況になるし私も行きたいと思うけれど、本当に美しいと思うものは、「ふと出会って」自分で「美しい」と感じるものなのかもしれない。そんな気がした。

だから、破損仏でも美しいことがある。
本書の中では唐招提寺の破損仏のことを井上さんが美しいとほめていた。いまでも、その破損仏は残っているのだろうか、、、。頭と手を欠いているのだそうだ。
ちょっとみてみたい。

誰かが美しいと言ったものを見てみたい、と思う心も、凡人だもの、いいじゃない。

でも、ふと思い出す。
知り合いに、私が「明石の仙人」と呼んでいる方がいて、いつもズボンのポケットに本が入っている。芸術、音楽、文学、映画、、、ほんとに博識でいらっしゃるので、話が尽きない方。あるとき、「好きな本はなんですか?」ときいたら、「そんなの、あなたには関係ない」と言われた。彼がいうのは、「それは自分でみつけなさい。僕が何を好きかというのはどうでもいいことだ」ということだった

「本当に好きなものは、自分で見つける」
そりゃそうだよね。。
だれかが、いいと言ったからいい、、、ではなくて、本当に自分が「好き」と感じられること。それは大事だ。


時実利彦さんは、東大医学部脳研究施設教授を経て、京都大学霊長類研究所教授になられた方。対談のタイトルは「人間に還れ」。霊長類研究所ということは、京極さんの先輩にあたるのかしら??
知らない人だったけれど、結構おもしろかった。
二人の共通点は、「情緒」を大切にしているところ。そして、「日本語」を大切にすべきと考えているところ。
文部省の「国語改革」は、日本の過去を抹殺して、国字を読めんようにする事を勝手にやっているのだ、と。

たしかに、日本語は滅びていないのだけれど、私は漢文、古文、旧仮名遣いは、、、読めない。常用漢字なんてきめたから、読めなくなってるんだ、と。あぁ、そうか、そうかもしれない。先日、森鴎外の『舞姫』を読もうと思ったら、旧仮名遣いの文語で、、、挫折した。。。既に著作権切れ(著者没後70年以上で著作権はなくなる)になっている多くの作品は、「現代語訳」で改版として出版されている。でも、昔の文体でよむのと、現代語で読むのと、やっぱり、本当はちょっと違う気がする。。。

実は、日本語も失われてしまったものは多いのかもしれない。知らないから、気づかないから、滅びていないと思っていただけなのかも。。。

 

山本健吉さんは、俳人。対談のタイトルは「連句芸術」。『芭蕉』という本をかかれていて、芭蕉について研究が深い方。
山本さんとの対談は、次から次へと歌がでてきて、興味深い。芭蕉については、
芭蕉は、自分の中の私というものをたえず捨てようとした、無くそうとした。無私とういこと、私なし、ということが芭蕉のこころがけの根本にある」と語っている。

芭蕉については、『猿蓑』があるが、岡さんは山本さんに
「今度は『猿蓑』の評釈を完成してください」と、芭蕉についてのさらなる研究を薦めている。

 

最後の「講演:こころと国語」では、自分は数学者であるけれど、小・中・高等学校における教育で一番主要な教科は「国語」である、という主張。
人はこころが大事で、こころを表現するには、言葉しかない。こころがあるから何かを感じることができて、感じることができて「わかる」ことができる。ことばで表現できるから「知る」ことができて「わかる」ことができる。
言葉の大切さの主張。

こころをいい表すのは、ことば。すなわち国語。 

 

どれも、テンポの良い対談で、読みやすい。

そして、岡さんの思考が熟成してきているというのか、より、確固たるものになってきているような感じがする。

209ページという薄めの単行本。

難しく考えず、対話の世界に没頭しつつ、コーヒーでも飲みながらのんびり読むのがおすすめ、かな。

 

うん、やっぱり、読書は楽しい。