「言志四録」 佐藤一斎:6 心は平なるを要す

「言志四録」(三) 言志晩録
佐藤一斎
川上正光全訳注
講談社学術文庫
1980年5月10日 第一刷発行

 

土曜日なので、、、、今日は、「言志四録」から。

 

6 心は平なるを要す

 

心は、平なるを要す。平らなれば則ち定る。気は易なるを要す。易なれば則ち直し。

 

訳文
外界がどうであっても心は常に平安であることが肝要である。心が平安であれば、自ずと心は安定する。
同様に気は安らかであることが肝要である。気が安らかであれば、何事もまっすぐに行うことができる。

 

語義
:この場合は、やすし、やわらぐ。

 

付記

同じような意味の言葉として、
心平らかなれば、寿(いのちなが)し。 (白楽天

長寿者は心が安らかな人が多い。

 

心和し、気平らかなる者には、百福(ひゃくふく)自(おのずか)ら集まる。 『菜根譚

気持ちが和らいで平静な人には、自然にたくさんのしあわせが集まってくるということ。

 

*『菜根譚儒教の思想を本系とし、老荘・禅学の説を交えた処世哲学書。2巻。明末の儒者洪応明 (字は自誠)著。前集には士官・保身の道を説き、後集には致仕後における山林閑居の楽しみを説く。


私たちの心は、このように平でありえるかどうか。或いは怒り、或いは怨み、或いは悪(にく)み、或いは妬み、或いは絶えず不平不満を持ち、絶えず心が動揺して落ち着かない。どうしたら、心を平らかに保てるのか。

つまり、自分の本当の敵は自分の中に巣を作っている自我、或いは我欲である。

 

神を抱いてもって静かなれ。  (広成子)

 

*広成子:(こうせいし):中国の小説『封神演義』や『神仙伝』に登場する仙人。

 

最後の、神を抱いてもって静かなれ、という神というのは、八百万の神だろうか?

 

心がおちついて、安らかでありたい、、と思うけれど、欲がでるのが人間だ。。緊張するのだって、自分の最高のパフォーマンスをだしたいと思ったり、いいところを見せたいと思うから緊張するのであって、本当に無欲なら緊張もしないだろう。。

 

最高のパフォーマンスを求めるという欲は、あっていいと思う。それは、我欲とはちがうのかな?高みをめざしたい、昨日の自分より成長していたい、と願うのは、人間の承認欲求の一つのであって、それまで無くしては世捨て人になっちゃう。

 

でも、自分の夢や欲望を求めすぎて、周りに目が行き届かなくなるほど視野が狭くなってしまうようでは、心安らかとは言えない状態なのだろう。

 

ときどき、自分のことを俯瞰する時間って大事だ。

自分の目標に夢中になりすぎているときというのも、心は平安でないような気がする。

周りが見えないほどになっていないか、時々、自分を俯瞰して見よう。

 

わき見運転も危ないけど、バックミラーやサイドミラーを見ない運転もあぶないからね。

 

視野狭窄にならずに、周りもよく見ることで、自分のことも見えてきて、心は穏やかになるのかもしれない。