「言志四録」(三) 言志晩録
川上正光全訳注
講談社学術文庫
1980年5月10日 第一刷発行
先日読んだ、『「修養」の日本近代』の中で、『西国立志論』を書いた中村正直が愛読していたのが本書『言志四録』だったという話がでてきた。
最近、坐禅会もなく、禅の言葉から離れていたので、久しぶりにこちらから。
4 修養の工夫
吾人の工夫は、自ら覔(もと)め自らうかがうに在り。義理混混(こんこん)として生ず。物有るに似たり。源頭来処(げんとうらいしょ)を認めず。物無きに似たり。
訳文
われわれの精神修養上の工夫は、自らの心の状態を求め、自ら観察するにある。
そうすると正しき道理がこんこんと水が流れ出るように出てきてそこに何物かがあるように思われる。
しかし、その根源はどこにあるかわからないから、何物もないようでもある。これが心の本体というものであるのだ。
語義
源頭来処:根源、本体。
付記
一休禅師の作という歌。
春ごとに 咲くや吉野の山桜
木を割りて見よ、花のありかを
修養というのは、知識をつめこむことではなく、自分のことをよく観察してみることにあるってことかな。
桜の歌は、桜色の染物を作るときには、花ではなく、樹皮や枝を煮だして使うという話を思い出す。
桜は、桜の花が桜色なのではなく、全身で春の桜色を蓄えているのだ。
初めてこの話を聞いたのは、小学生の時。国語の教科書だったか。鳥肌が立った。色の不思議に魅せられ、将来、綺麗なお花の色の絵の具を作る人になりたい、と思った。。。
科学の不思議と、生き物の不思議。結局私は、生き物の不思議の道に進むのだが。。。
目に見えているのは、物の本質ではない。
見えないところに、本質がある。
自己啓発や自己を高めるというのも、人に見せるためにするのではない。自分のうちにこめたエネルギーのような活力が高まっていくということなのだろう。
学ぶというのは、そもそもその知識を何かに役立てるためにあるのであって、知識があることを自慢するためにするのではない。誰かの言っていることが、自分の知識からすると誤っているように思えても、それを正すことが必ずしも正しいことではないこともある。
年齢を重ねれば、若者よりも知識も経験も増える。だからといって、自分の知識や経験が若者のそれを否定するものになってはいけない。
かつ、自分より年配の方の考えについても、違うと思っても、あえて意見しない方がよいこともある。たとえそれが圧倒的に間違っていたとしても、、、、。アドバイスも意見もしない方がいい関係というのは、世の中にある。
50歳を過ぎると、そんなことを思うもある。
そして、「口を慎む」という言葉の深い意味も考えるようになる・・・・。
何か反論したくなったときに、ぐっと言葉を飲み込み、なぜ意見の違いが生じているのか、相手の内在的論理を考える、っていうのができるようになると、ホントに大人っていえるのかもしれない。
と、修養とはちょっととんじゃったけど。
「言志四録」も、『「修養」の日本近代』の著者に言わせれば、通俗道徳のひとつだけれど、それでも、やっぱり私は良い本だとおもう。
読んでみて、自分の頭で考えてみる。
そういう機会を与えてくれる本というのは、良本といえるのではないだろうか。
私にとっては、ね。
読書は楽しい。