「言志四録」 佐藤一斎:8 沈静なる者と快活なる者

「言志四録」(三) 言志晩録
佐藤一斎
川上正光全訳注
講談社学術文庫
1980年5月10日 第一刷発行

 

今日は、言志四録から。

 

8 沈静なる者と快活なる者

 

人と為り鎮静なる者は、工夫尤も(もっとも)宜しく事情の練磨を勉む(つとむ)べし。快活なる者は、則ち工夫宜しく静坐修養(せいざしゅうよう)を忘れざるべし。其の実、動、静は二に非ず。姑く(しばらく)病に因って之に薬するなり。則ち是れ沈潜(ちんせん)なるは剛を克め(おさめ)、高明なるは柔もて修克むるなり。

 

訳文

人柄が沈みがちで静かな人は、精神修養の工夫をするのには、実際の仕事に当たって鍛錬するのがよい。

快活で落ち着きの少ない人は、静坐沈思する修養工夫を忘れないようにするがよい。

前者の修養方法は動的であり、後者が静的であるが、実は動と静と二つあるのではない。いわば病気に応じてクスリを与えるようなものなのである。すなわち、今述べた方法は引っ込み思案の人には剛き行いでその欠点をおさめ、出過ぎやすい人には柔和をもってその欠点をおさめしめるものである。

 

語義

事情錬磨:実際の事にあたって精神を修養する方法で、明の王陽明がいいだしたのである。(宋時代の儒者はいずれも、静坐して精神修養をする状態であった。しかし、王陽明は静坐が有効であることは認めたが、これをもって唯一の修養法とする事を断然排し、寧ろ事情錬磨が更に効果的なりと主張 したのである。このことはアメリカでいうTraining on the jobに一脈相通じるものと思う。)

:これにかち、これをおさめること。



なるほど、である。

静かな人には動で、快活な人には静で。

それぞれの人にあった修養方法があるのだ、ということ。

 

私は、静か動かと問われれば、まちがいなく、出過ぎて打たれる「動」の人だと思う・・・。だから、私には坐禅が気持ちいいのかもしれない。意識しないとじっとしていることがない。別に、じっとしていることが嫌いなわけではない。だけど、いつも、あれもやりたい、これもやりたい、と、どちらかというと何かを求めて動き続けてしまう。

 

かといって、その自分の欲望が、はたして正しいことなのかどうかは自信があるわけではない。だからこそ、ちょっと立ち止まって、じっと考える時間も好きなのだ。

 

じっと、坐禅をすることだけが修養ではない。

 

なるほど、こう明言されると、ちょっと心休まる気がする。

 

人は、静と動とに分かれるかもしれないけれど、同じ人でも人生のタイミングによって静のときと動のときがある。

 

バリバリと前にすすむとき。じっと立ち止まって考える時。

 

バランス、と言ってしまうとそれまでだけど、やはり、バランスなんだと思う。動くことと休むこと。アクセルとブレーキ。どちらもあるのが大事。足りない方を補う。それが修養というものなのか。

 

むかし、中学生か高校生か、10代のころにどこかの大人に、「あなたはバランスを大事にする人だ」というようなことを言われた。申年、天秤座、次女。そんなことからの占いみたいなものだったと思う。占いを信じているわけではないけれど、なんとなく子供ながらに自分にしっくりきた言葉だったのだ。集団の中でのバランス、自分の中でのバランス、そういうものが崩れるのが私にはストレスに感じる。

 

みんなで仲良しこよし、が好きなのではない。どちらかというと、みんなでそろって何かをするのは苦手だ。でも、それぞれがそれぞれで、なんとなくバランスする感じが好きだ。別に、私自身がバランスの取れた人間だとは思わないし、そういうことではなく、自分の出過ぎた部分を誰かに吸収してもらいたいし、だれかが凹んだ部分を補いたいと思う気持ちが、ちょっと人より強いかもしれない。

 

「自立とは依存先を増やすこと」という、熊谷晋一朗さんの言葉がある。本人からこの話を聞く機会があり、いたく腹落ちした。

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何事も、その人にあった方法がある。

運動も然り。

名人の真似をしたからといって、名人になれないのは、人それぞれに違いがあるからだ。

 

自分に合った方法を探し続けるのが、自分と向き合う、という言なのかもしれない。

沈静、快活、どちらがいいということでもない。

自分がどちらかということでもない。

いまここ、の自分に合う方法を探せばいい。

 

そして、

自分の人生は、自分で考えて、自分で決める。