『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』 by   下西風澄 (その1)

生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる 
下西風澄(しもにしかぜと)
文藝春秋
2022年12月12日 第1刷発行


日経新聞、2023年3月21日の書評で紹介されていた本。

記事では、著者の下西さんは、中学生の頃にデカルトを読み「意識や心がなぜ存在しているんだろうということが、悩みでもあり好奇心にもなった」、と紹介され、”人間は心や意識をいかに捉え、「発明」してきたのか――。気鋭の哲学者・下西風澄(36)が初の単著「生成と消滅の精神史」(文芸春秋)で、哲学や文学、認知科学の3000年にわたる営みを追いかけ、壮大な問いに向き合った。”とあった。

 

気になった。とても気になったので、図書館で予約してみた。わりとすぐに借りられた。注釈を含めると522ページの単行本。なかなかの質量。本文で456ページなので、いかに注釈が細かいか。読み始めてすぐに、これは時間がかかるぞ、、、と思った。西洋の哲学者が次々とでてきて、途中で投げ出そうか、、と思ったけど、なんともいえない著者の素直な思いが伝わってくる感じがして、難しく考えずに著者のひとりごとを聞いてるようなつもりで読んだ。

 

うん、悪くない。
うん、ちょっと、好きかも。
きっと、すごく時間をかけて、丁寧に書いている。
様々な人の言葉を引用しながら、丁寧に自分なりに解釈しようとしている。
著者の思考を、覗いているような、そんな感じの一冊だった。
渾身の一冊、って感じ。

 

著者の下西さんは、1986年生まれ。私から見ると、かなり若い。でも、すごく深く思考していて、それを文字にして文章にして表現しようとしている。かなり丁寧に。こういう思考の人、好きだ。とことん、自分と向き合っているタイプ。
著者紹介によれば、東京大学大学院博士課程単位取得退学。哲学に関する講義・執筆活動を行っている。心という存在は歴史の中でいかに構築されてきたのか、哲学を中心に認知科学文学史など横断的な視点から思索しており、本書はその成果をまとめた初の単著である、とある。

 

表紙裏の説明には、
”「心」とは、一つの試みにすぎない。
 ソクラテスは心を発明し、
カントは自立した完全な心を追い求めた。
人間以外の存在と共に心を語ることを試みたハイデガー
心と身体の関係を問い直すメルロ=ポンティ
日本における心の姿を探し続けた夏目漱石
若き俊英が鮮やかに描き出す、人類と心の3000年。”
とある。

 

目次
プロローグ
序章  心の形而上学とメタファー

第Ⅰ部 西洋編
 第1章 心の発明
  ホメロス  神々と自然
  ソクラテス  心の時代の到来
  第2章  意識の再発明と近代
   デカルト  孤独なる、明滅する心
   パスカル  悪背うの途絶えた狂気なる心
   カント  空虚な形式としての心
 第3章 綻びゆく心
  フッサール  意識の哲学
  ハイデガー  人間とネットワークの哲学
  第4章 認知科学の心
   認知科学の誕生   言語・神経・主観性
   ヴァレラ   生命的な心
   メルロ=ポンティ   切り結ぶ心
 
第Ⅱ部 日本編
  第5章  日本の心の発生と展開
  神話の起源と心の原初
  『万葉集』から『古今和歌集』へ   言葉から 心へ 
  第6章  夏目漱石の苦悩とユートピア
  引き裂かれた心  
  漱石バタイユ江藤淳
  漱石サイバネティクス
 終章 拡散と集中
エピローグ
あとがき


読み終わって思うのは、これは、2冊の別々の本がひとつになったもの、って感じ。第Ⅰ部では、西洋における「心」のとらえ方の変遷。紀元前の神話の時代から、20世紀まで。第Ⅱ部は、うって変わって日本の心。しかも、万葉集古今和歌集の時代から、一気に夏目漱石の時代。第Ⅱ部は、和歌の解説と、夏目漱石の解説を聞いているよう。それでいて、そこに、日本における「心」のとらえかたの変遷、平安の時代には中国大陸からの影響、明治以降は西洋からの影響を受け続けた変遷が、解説されている。
そして、心のとらえ方から認知科学へ、認知科学から人工知能へ。人工知能は、心の動きを文字と記号の関数に変換しようとする試みなのではないのか、と。

 

面白かった。第Ⅰ部は、かなり、難解。いわゆる哲学書を読んでいるよう。それでいて、それぞれの哲学者の著書からの引用をそのままもってきて、それを読み解くように思考しているので、著者と一緒に、様々な哲学者の言葉を聞き、その意味を紐解く作業をしているような、、、不思議な感覚。

第Ⅱ部は、和歌もたくさんでてくる。いったい、この著者は、どれだけの本を読み込んだんだろう、、、と思う。万葉集古今和歌集にでてくる歌を、次々と解説している。夏目漱石については、まるで夏目漱石研究者のようだ。。。私は、まだ読んだことの無い漱石の作品がたくさんあるので、これは読まねば、、、と思った。

 

あとがきで、本書を完成させるのに構想から5年もまってくれた文藝春秋の担当者への謝辞が述べられている。そうか、、、5年か。2017年から書き始めたとして、著者は31歳くらい。すごいなぁ。。。

 

じっくり考えることが好きな人にお薦め。ほんとに、思考することが楽しくなる、そんな感じ。第Ⅰ部は、私には理解不能なところもたくさんあったけど、それでも、そうか!そういうことだったのか!という気づきもたくさん。だいたい、西洋の哲学者の名前って、その思想の中身も、時代の流れがわからなくなるのだけれど、本書の第Ⅰ部を読むと、どうして私の中で時代がこんがらがるのかがわかった気がした。要するに、人は、似たような思考の挑戦を繰り返しているのだ。
神話の時代、神から自己を自立させようとした時代、イエス・キリストの誕生によって再び神の時代、そして、キリスト教の衰退とともに科学技術の発展と啓蒙思想の時代。

 

様々な神(ギリシャの神々) → 人間 → 唯一の神(キリスト) → 人間

 

と、心のありかが神と人とを往復したのだ。これは、日本の歴史にはない。それが、西洋の思想をいままですっきり理解できなかった根本だ!!ということに気が付いた。
そして、神から人に心のありかを移行させようとしたのは、いつも、「タフガイ!」だったということ。ソクラテスの「汝自身を知れ」デカルトの「我思う。故に我あり」は、タフガイだったからこそ、自分ととことん向き合えたのだ。一方で、パスカルのようなタフガイで無い哲学者は、「人は考える葦である」なんて、弱弱しいことをいってみたり、、、。

これは、目からウロコ。
そうか、そうだ。

 

そして、第Ⅱ部では、西洋が紀元前のギリシャ神話の時代からの積み重ねで近代の哲学思想が出来ているのに対して、日本は明治以降にいきなり西洋の、しかも科学技術発展以降の西洋の思想がはいってきた。だから、一気に「心の自立」みたいなプレッシャーのもとにさらされたのだ、と。そして、そのプレッシャーに苦悩したのが夏目漱石であり、漱石の作品の中には日本人が心をどうとらえていたかの変遷が語られているのだ、と。

うん。面白すぎる。
なるほど、なのだ。 

 

気になったところを覚書。

「人間」という言葉は、フーコーがフランス語で発明した。
日本において、「人間」という言葉がl'homme(仏)やhuman(英)の訳語となったのは、そう古くない。明治以前は日本人は人間のことを「ひと」と言っていた。Manも「ひと」と訳されていた。「間」という字をここに付け加え、「人ー間」という関係性を前提とした概念を普及させたのは、和辻哲郎三木清だった。

 

・「人工知能の歴史は、およそ紀元前450年頃に始まった」
哲学者ヒューバート・ドレイファス(1929~2017)の言葉。人工知能の歴史というのは、単なる技術の歴史ではなく、思想あるいは心のモデルの歴史、ということ。
人間の創造力をAIに持たせようという試みは、まさに、心の数式化。ソクラテスの心の在り方を探るという哲学が、人工知能の歴史の原点だ、と。

 

プシュケーとは。psycheソクラテスは、プシュケーが生命を維持させる元、と考えた。ホメロスの時代(ギリシャ神話の時代)には、魂(プシュケー)は神から与えられるものだったが、ソクラテスは、プシュケーは人体や感情、意思をコントロールするより積極的で主体的な役目を持つと考えた。神から人への転換。タフガイは、より主体的に心をとらえた。

 

ソクラテスは、「自己」という問題を最初に論じた哲学者。

 

ホメロスの「風のような心」からソクラテスの「制御する心」への転換が起きた。つまり、ソクラテスは、心を神と自然から切り離した。

 

デカルトの哲学の第一原則:「存在」は神であろうと物質であろうと世界そのものであろうと、「私」を出発点とする。 世界の存在 全体が 私の思考という心の動きに委ねられている。

 

デカルトの行った意識の再発明。それは第一に「考える我」という世界の存在を根拠付ける基盤を作り上げたこと。また第二に、精神と身体を区別して身体を機械とみなしたこと。 そして魂という霊的で自然や神々とのつながりをわずかに保っていた概念を、血液と同等の物質へと変更し、意識という新しい認識装置を概念化したこと。

 

デカルト:「私は存在する。しかし、私が考える間のみ」
考えていないときに、私は存在しない???寝ているときは??ちょっと、この辺りは難しくてよくわからない。

 

デカルトソクラテスの共通点。「タフガイ」だったこと。

 

パスカル「人間は考える葦である」は、「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である」ということ。パスカルは、タフガイではなかったのだ。デカルトのタフさに対抗したかったのだ。

 

長くなりそうなので、続きはまた、、、。