『こころ』 by  夏目漱石

こころ
夏目漱石
角川文庫
昭和26年8月25日 初版発行
昭和60年6月30日 121刷発行

 

ご存じ、夏目漱石の『こころ』。手元の本には、昭和60年発行、定価260円とある。
数か月前に実家の本棚でほこりをかぶっているのを見つけて、自宅に持ち帰ってきていた。
昨年だったか、知人が「今、夏目漱石がマイブーム」といっていたので、そういえば、何十年も読んでいないなぁ、と思っていたのである。
『危機の日本史』明治篇でてきたので、読んでみた。

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感想。
暗い、、、、。
なんて、、、、暗い話なんだ。。。
でも、救いようがないわけではなく、なんというのか、時代だったんだなぁ、、、と他人事のように受け取めることもできるので、読んでいて、辛くなるわけではない。
でも、暗い。
だって、先生は結局自殺しちゃうのだし。。。。

 

夏目漱石について、復習。

 

夏目漱石(なつめそうせき)は、慶応3年(1867)2月9日、江戸牛込馬場下横町 (うしごめばばしたよこまち)(現在の新宿区喜久井町)に、夏目小兵衛直克の末子として生まれる。
 3歳の時に塩原家に養子に出され、10歳の時に正家へ戻るが、戸籍の上では、22歳まで塩原を名乗っていた。
 17歳のとき、大学予備門(のちに第一高等中学校と改称)に入学。ここで正岡子規と出会い、友情を深める。学業に励み、ほとんどの教科において主席であった。特に英語はずば抜けて優れていた。そして明治23年(1890)23歳のとき、東京帝国大学英文学科へ入学。明治26年(1893)26歳のとき同大学同学科を卒業する。

大学卒業後は、東京高等師範学校の英語嘱託をへて、明治28年(1895)松山愛媛県尋常中学校に英語科教師として赴任し教鞭をふるう。松山は子規の故郷でもあり、ちょうどこのころ静養のため帰郷していた子規と共に俳句に精進する。また、同時期に、中根鏡子と結婚する。

 明治33年(1900)33歳のとき、文部省から英文学研究のため英国留学を命じられ、渡英。初期の頃は、勤勉に励んでいたが、じきに英文学研究への違和感を感じ始め、神経衰弱に陥る。文部省は、帰国を命じ、明治36年(1903)に漱石は帰国。

明治38年(1905)38歳のとき 『吾輩は猫であるを発表。その後 『倫敦塔』(ろんどんとう) 『坊っちゃん』と立て続けに作品を発表し、作家としての地位を向上させていく。
明治40年(1907)40歳のとき、教職を辞めて、朝日新聞社へ入社し、本格的に職業作家としての道を歩み始める。出世が約束されていた帝国大学教授から一新聞小説家へ、明治のエリート街道からの逸脱は人々に驚きを与えた
 明治43年43歳のとき、『門』の執筆中胃潰瘍を患い、療養生活となる。転地療養のため修善寺温泉へ赴くが、そこで大量に吐血し、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。その後、一旦容態が回復し東京へ戻るが、漱石は何度も胃潰瘍などの病気に苦しまされることとなる。

 明治44年(1911)44歳のとき、文部省から博士号授与の通達があったが、漱石がこれを辞退したため波紋を呼んだ。この博士号辞退事件は、権威主義的な政府に激しい憤りを感じていた漱石の反抗の現れであった。漱石は博士号という名誉より作家であることを選んだのである。

大正5年(1916)49歳のとき、『明暗』執筆途中に胃潰瘍が再発、内出血を起こし、その短い生涯を閉じた。

とまぁ、波乱万丈で、心身共に頑健ではなかったようだ。

 

夏目漱石を読んだのは、中学生くらいの時だろうか。よく覚えていないし、どの作品も読まずとも耳に入る情報として知っているのか、しっかり自分で読んだのか、記憶もあいまいだ。あるいは、教科書に一部が抜粋されていたりしたのだろうか。
国語のテストで、冒頭の一節がでて、これは何の作品か?みたいな問題があったのか。

 

まぁ、とにかく、何十年ぶりかに夏目漱石を読んでみた。


「全体とディテール」ということで言えば、主人公の書生の眼を通して、明治天皇崩御のころの時代について、恋愛・結婚と家族、地方と東京、書生の生活を語っている。

漱石が世間に言いたかったことを、先生に語らせているのかもしれない。

あらすじは、ネタバレとか言う次元の作品ではないので、ざっくりと紹介。

 

作品は、
上:先生と私
中:両親と私
下:先生と遺書
と3部構成。

登場人物は、名前では語られない。

上では、書生である私が、先生と出会い、親交を深めていくところ。
中では、慢性病で卒倒を繰り返す父の元へと私が帰郷している間の話。
下では、帰郷中の私に、先生からの遺書が届き、その遺書そのもの。

上で、その時代の人々の暮らし方が垣間見える。
中で、その時代の家族のありよう、年配者(先生や父親)と若者(私)の関わり方が見える。
下で、先生が妻にも話せなかった苦しみの吐露。

先生は、私の学校の先生ではなく、夏休みに遊びに行っていた鎌倉で偶然見かけた紳士。昔の若者と言うのは、年上の男性を「先生」と読んだものなのだろうか。実は、素性もよくわからないままに、なんとなく気になってついていった、、という感じ。

先生は妻と二人暮らしだが、お手伝いさんがいる。当時、そこそこ経済的に余裕のある家庭であれば、一般的なことだったのだろう。お手伝いさんがいるということで、その人の経済状況、社会的地位がなんとなく推測できる

私は、田舎から勉学のために東京に出てきている。物語の途中で、学校を卒業するのだが仕事に対する夢はなく、何かいい仕事があれば、、と程度に思っている。これまた、生活に余裕があるということで、そこそこの家庭のぼっちゃま、ということなのだろう。

物語の半分くらいは、先生の遺書。先生の回想になっている。それは、私が先生が奥さんに隠している秘密はなになのか、と聞いたことがきっかけの吐露である。
先生は、若いときに、軍人の未亡人とその娘の住む館に居候していた。その娘が先生の奥さんになるわけだけど、先生の幼なじみKがその娘を好きになったのだと告白されて、あせって未亡人に「お嬢さんをください」と言ってしまったのだった。

Kは、先生の同郷の幼なじみで、真宗寺の息子だったのだが、医師の家に養子にだされ、医学の勉強のために東京にでてきたはずが、養家にだまって違う学問を選択していた。それが養家の知るところになったのちは、一斉の費用をだしてもらえなくなったどころか、これまでの費用も実家が負担することなる。そんなことがあって、精神的にも弱くなっていたKを自分の居候先に連れてきたのは先生自身だった。お嬢さんとKの出会いのきっかけを作ったのは自分だったのだ。自分はもとよりお嬢さんを好いていた。でも、先にKからお嬢さんのことが好きなんだと言われると、自分の想いをKに伝えることなく、お嬢さん奪取に走ってしまった。そして、Kは先生のことを責めることもなく自殺してしまう。。。

居候先の奥さんもお嬢さんも、Kの自殺の原因はまったく思い当たらない。もともと衰弱していたのだから、なにか、気を病んだんだろう、、、くらいにしか考えなかった。
だから、先生は、Kからの告白をひた隠しに隠した。
隠し続けて、何十年。。。それでも、毎月Kの墓参りは欠かすことがなかった。

 

自分の中で、良心の呵責に責められ続けたのか。
そんなに、自殺しなくてはいけないほどの悪行だったのか。
なぜ、今になって自殺を選んだのか。。。

 

先生の自殺は、私が父の見舞いに郷里に帰っているときに、その遺書をうけとることで私のしることとなる。長い手紙の終わりに、
この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。」と綴られていたのだった。

そして、私は、その手紙を読むや否や、もうすぐ臨終の際かもしれない父の床を離れ、急いで東京へ向かおうとする。。。

父の命は、もう助からない。ならば、助かるかもしれない先生のもとへ、、、。
そんな気持ちだったのだろうか。。。


物語は、先生の遺書で終わる。


時代をもう一度振り返ると、

 

1867: 夏目漱石 生まれる。
1868: 明治時代の始まり
1912: 大正時代の始まり
1914: 『こころ』朝日新聞での連載開始。
    第一世界大戦勃発。日本参戦

『こころ』は大正3年の作品。第一次世界大戦のころ。

 

先生の言葉を以下、覚書。

・「私は細君のために家にかえる」

・「恋は罪悪ですよ。そして神聖なものです。」

・「私は私が信用できないから、人も信用できないのです。」

・「人はいざというとき、悪人になる。特に金が絡んだ時」


私の父の言葉
・「学問をさせると、人間はとかく理屈っぽくなっていけない」


自分が言いたいことを、登場人物に託したのかな、、と思う。

 

新聞の連載だったのだから、対象は当時、新聞を読む知的水準・経済水準の大人だろう。なんで、ただの独白だけでなく、先生に死んでもらわなくてはいけなかったのかな、、、と思うと、深い。。。

 

最後まで、妻には黙って静かな余生を送ったってよかったのに、と思う。

それを許せない何かが漱石の中にあったのか。。。

 

大正14年。戦前の作品。

でも、今なお読み継がれる。

すごいなぁ。

 

明るい気分になる本ではないけれど、読んで満足感を感じる。なんだろうか。

読んだインプットから、自分の中で色々思考がめぐることが楽しいというのか。。。

それこそが、古典のすごさなんだろう。

自分の思想を掻き立てられる。

 

古典と言うべき作品は、それはそれでやっぱり読んで楽しい。

 

こころ