『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』 by   下西風澄(しもにしかぜと) (その2)

生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる 
下西風澄(しもにしかぜと)
文藝春秋
2022年12月12日 第1刷発行

 

昨日の続き。

megureca.hatenablog.com

 

目次
プロローグ
序章  心の形而上学とメタファー

第Ⅰ部 西洋編
 第1章 心の発明
  ホメロス  神々と自然
  ソクラテス  心の時代の到来
  第2章  意識の再発明と近代
   デカルト  孤独なる、明滅する心
   パスカル  悪背うの途絶えた狂気なる心
   カント  空虚な形式としての心
 第3章 綻びゆく心
  フッサール  意識の哲学
  ハイデガー  人間とネットワークの哲学
  第4章 認知科学の心
   認知科学の誕生   言語・神経・主観性
   ヴァレラ   生命的な心
   メルロ=ポンティ   切り結ぶ心
 
第Ⅱ部 日本編
  第5章  日本の心の発生と展開
  神話の起源と心の原初
  『万葉集』から『古今和歌集』へ   言葉から 心得 
  第6章  夏目漱石の苦悩とユートピア
  引き裂かれた心  
   漱石バタイユ江藤淳
   漱石サイバネティクス
 終章 拡散と集中
エピローグ
あとがき

 

覚書を昨日の続きから。

 

・1816年から30年にわたって続いた「30年戦争」は、宗教の新興勢力による分断であり、人々は唯一なる神を妄信的に信じることはもはや出来なくなった。

 

宗教改革は、神の力を教会から開放し、神を民主化した。そのことによって、神の権力と権威は低下した。マックス・ウェーバーは、「神の民主化」を「脱魔術化」といった。それは、個人と神との関係を再構築する必要性をもたらした。そこから、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神が生まれる。

 

カントにおける心は、デカルトのように全世界の存在をの根拠を背負う必要はないし、パスカルのように神との接続を切望する必要もない、自律的かつ機能的でシステマティックなもの。それは、認知科学における脳や AI のモデルと相性が良く、心がある種の情報処理システムやアーキテクチャであると解釈されるモデルであった
 カントもAI構築構想に貢献したということ。

 

・「他者」の認識についてのフッサールの考え。 なぜ、自分と同じように他者もなにかを知覚したり、考えたりするということが分かるのか? 私たちは他者と出会う時、他社の中へ自己を投入することができるのである。 このような経験が可能である理由は、「私の身体」が「他者の身体」と類似しているからであるという。他者が目の前に現れた時、自分と外見が似ているとという理由によって、「対比(Paarung)」する(ペアになる)。類似移入という受動的なプロセスは、半自動的に起きる。
 これは、言い換えると、 自分と外見が似ていない人は、他者とも認識できないということで、敵とみなす、、、ともいえるのかもしれない。ちょっと怖い。かつて、白人がアジア人や黒人を野蛮人とみなしたように・・・。


・あらゆる存在の中で、人間という存在者だけが、自らの存在の起源について問う。石や鳥や空は、何も問わない。存在は、人間を通して開示される。(ハイデガー)

 

・人間はただ独りの「単独者(Einzelness)」として、死へと向かい、死を引き受ける。死だけは誰にも代理してもらえない。この考えは、実存主義ハイデガー)の潮流を加速させた。日本でのハイデガー受容に多大な影響を与えた木田元は、その哲学を「ドフトエフスキー」と重ねて読んだ。

 

・死へと向かう実存は、他者たちと「運命」を共にする 「共ー存在(Mit-Sein)」として位置付けられ、歴史的了解を持って自覚されなければならない。固有の歴史を共有する実存の共同性は、民族主義の傾向を持ち、民族もろとも死へ向かいつつ存在を共にするという全体主義の傾向を高めてゆく。 近代日本哲学の京都学派は、ハイデガーの哲学を学んだことから、全体主義へと流れ着いてしまったことにつながる

 

・論理学からコンピューターへの流れをつくった二人の人。アラン・チューリングは、チューリングマシンと呼ばれる仮想的な計算機を生み出した。 この計算機を実際に実装可能な設計に落とし込んだのが、 フォン・ノイマンで、プログラム内蔵型のコンピューターを作った。 

 

フランシスコ・ヴァレラは、心をはじめから与えられた超越論的な機能でもなく、神経活動による情報処理プロセスでもなく、身体行為によって世界と関わることで生成させていくのであると考えた。主体が環境の中で行為するのではない。行為によって主体と環境が同時に存在を開始する、と考えた。

 

ヴァレラは、細菌が環境が変わったときに鞭毛をつかって動くことができるということは、ニューロンを持たずしても感覚をもった認知行動を実現しているとみた。よって、「神経システムは認知の創始者ではなく、原始的なセンサーモーター能力の幅を拡張したものすぎない」と主張した。
つまり、脳は、細菌の鞭毛がちょっと進化したようなモノ。でも、そのセンサーがあるから、自己を形成することができて、世界を創出し、意識することが可能になる。

 

メルロ=ポンティは、知覚から意識が構成される、と考えた。それは、フッサールが考える意識があるから知覚できるという考えと逆。超越論的主観性をみるフッサールに対し、身体行為と主体と環境の相互交流を中心と考えたのがメルロ=ポンティ

 

・19世紀~20世紀の西洋思想は、しだいに東洋思想の可能性にも関心をもつようになる。ショーペンハウアー仏陀の「無」の思想を、ニーチェは仏教哲学を学んだ。ハイデガーは、存在が老荘思想の「道」に通じると考えた。西洋の「支配/制御」というモデルに対して、東洋は「交渉/共鳴」というモデルだった

 

日本最古の和歌集である『万葉集は、月や花、鳥や風、あらゆる自然存在の共鳴器であるかのような心だった。本居宣長のいうところの「もののあわれ」の情緒が日本の共鳴。

 

・日本の特異性について、著者の言葉。日本は、東アジアで中国文明の文化をストレートに背負ったまま西洋近代化に成功した国家。現代社会においても 欧米圏と中国・アジア圏が不可避的に衝突して混じり合う状況にある中、その最初の衝突/融合の試みが行われたのが 日本という場所でもある。だから、日本を舞台に心の変遷を第Ⅱ部で論じている。

 

・8世紀の『万葉集』は、視覚したものを「見ゆ」という形で表現した。見て感じた心の共鳴を歌ったものが多かった。それから約150年後の『古今和歌集』(紀貫之編纂)では、「見ゆ」が減って、「思う」という表現が多くなっている。ただの共鳴から、言葉を使って心を表すように変化した。著者はここに日本における、意識の変化があるという。

 

・日本の想像力の特色の一つは、パラレルワールド村上春樹泉鏡花から影響をうけたといい、「能」や「アニメ」にもその特色がある。確かに、鬼滅の刃も鬼の世界がパラレルワールドだ。

 

夏目漱石は、西洋が数千年をかけて徐々に経験してきた心の歴史を、仕事、留学といった経験を通して、たった数十年に圧縮して経験してしまった。 その圧倒的なスピードと過重な負担が 漱石の心にかけた圧力とストレスは想像を絶する。 
 夏目漱石神経症だったことは有名だけれど、その所以を、変化のスピードのストレスとみるのか。たしかに、その変化を理解していなければ苦しみもなかっただろうが、多感にも受容し、理解しようとしてしまったことに漱石の苦しみがあったのかもしれない。

 

江藤淳漱石論。「かれが平和に暮らすことができる楽園があるとすれば、それは自分が存在しないように存在するという奇怪至極な世界以外にはない。」
ちょっと、勝手な意地悪なことをいう人だ、、、という気がする。解釈は色々あろうが、私は、ほんとうの漱石の心の苦しみはなにであったかなんて、他の人にはわからない、と思う。

 

夏目漱石の作品の数々への解説。漱石にとって(主人公にとって)、山は現実の世界から逃げられる場所。主人公は働かない、やや弱っちい男が多い。横たわっていたり、朦朧として意識が混濁する場面がままある。「赤」が意識の対象としてよくでる。
三四郎:東京という新世界と熊本や母という自然のパラレルワールド
草枕:山が桃源郷であり、逃げ込む場所。意識朦朧とする主人公は、漱石の神経衰弱を物語る。
虞美人草(ぐびじんそう)』比叡山という山が逃げ場所。
『坑夫』:山中を歩く。珍しく肉体労働の男。本書は、ある青年に書いてくれと言われて書いたから、ちょっと主人公がいつもとちがう。
『それから』:最後は、まさに、赤、赤、赤、
『門』:夫婦の関係とは。
『行人』:だんだん、弱っていく漱石自身のように、でてくるものの色はあせていく。

 

漱石は、明治初頭の文学者の中でも、自然科学に関心が高かった。「科学と自然」とどう折り合いをつけていくのか、というもの心の問題の一つだった。だから、漱石はストレスにさらされた。


つらつらと並べて書いてしまったけれど、後半は、漱石論からAIへのつながる。

自然科学が発展し、産業革命で機械化がすすんだことで、人間の肉体労働は楽になった。今度は、心の科学が発展することでAIが発達し、人間の精神活動が楽になる、そんなことをめざしているのでないだろうか、というのが、最後のまとめ。AIは、精神のアウトソーシング、と。うまいこと言う。

ただ、心は終わりがない。心は終わってはまた新たに浮かんでくる。AIに精神活動を委ねたとしても、また、新たな心が生成するのだろう。 

 

なかなか、面白い一冊だった。万葉集古今和歌集の歌も、自分で意味もわかるよういなったら、面白いのだろうな、と思った。そして、夏目漱石

 

哲学者のような、文学者のような、不思議な著者だ。きっと、いっぱい本を読んできたんだろうな。すごく一生懸命書いている感じが伝わってくる。それでいて、洗練され切っていないような、ちょっと若々しいような、俗世界に汚れていないような、、、そんなみずみずしさを感じる。また、数年後の彼の本を読んでみたい、と思った。

 

読書は、楽しい。

 

あ、ちなみに、第6章で、漱石サイバネティクスという項があるが、サイバネティクスとは、生物や機械などにおける制御と通信の問題を取り扱う総合的な学問分野cybernetics。生物も機械も、同じ方法的視点で考えようとする学問。