『言葉を生きる 考えるってどういうこと』 by  池田晶子 

言葉を生きる 考えるってどういうこと 
池田晶子 
ちくまQブックス 
2022年6月15日 初版 第1刷発行

 

会食中、知り合いの本の達人と話をしていて、「数年前に急逝した女性哲学者」、、、名前が出てこないと。そして、酔っぱらいながら、忘れたころに彼の口から出てきたのが、「池田晶子」だった。私には、聞き覚えのない名前。女性哲学者で、面白い本をたくさん書いていたとのこと。気になったので、図書館で検索して、新しい著書を借りてみた。

 

池田晶子さんは、1960年 東京生まれ。  慶應義塾大学文学部哲学科卒業。文筆家。 専門用語 による「哲学」ではなく、考えるとはどういうことかを日常の言葉で語る「哲学エッセイ」を確立して、多くの読者を得る。 特に若い人々に、本質を考えることの面白さ、形而上の切実さを、存在の謎として生死の大切さを、語り続ける。主な著作に『14歳からの哲学』『14歳の君へ』『 暮らしの哲学』など。2007年没。

どんな人だったのか気になってので、ネットで検索してみたら、公式ホームページがあった。

池田晶子 | (池田晶子記念)わたくし、つまり Nobody賞


ガンで亡くなったらしい。本書の中でもお酒の話がでてきたけれど、”山を好み、先哲とコリー犬、そして美酒佳肴を生涯の友とする。”とあった。肉声の語りをきいてみたかったな、って感じ。

2007年に亡くなったというが、本書もそうだが、それ以降に出版された本もいくつかあるようだ。それまでの出典から編集したものだろうけれど、もっと彼女の本を読んでみたい。そんな気になる一冊だった。

 

ちくまQブックスは、本の分類としてはティーンズということになっている。でも、大事なことを短くまとめてくれているので、読みやすくて、大人にもよいシリーズだと思う。

 

本書の裏の説明には、
”君たちは言葉を使って話したり書いたりしている。 でもどうして伝わるのだろう。相手と君が同じことを理解できるなんて奇跡みたいじゃないか。この当たり前に気づいて驚いた 君は幸運だ。その驚きが君の考える力になる。『14歳からの哲学』の著者が贈る考えるヒント。”とある。


ちくま書房のHPには、
”『言葉を生きる』考えるってどういうこと?
言葉の不思議、存在への驚き──。
エッセイを読む楽しみを中高生から味わえるよう編み直した珠玉のアンソロジー
著者が確立した「哲学エッセイ」から、選りすぐりの17篇(各全文)を収録。 
やさしい言葉で、哲学が日常の中の永遠の問いであることを語った池田晶子
彼女を知る最適な一冊であるとともに、エッセイを読むよろこびを満喫できる本。”
と。

ほんと、そんな感じ。

感想を一言でいえば。すっきり!うん、そうだそうだ!!
私が未だにモヤモヤと考えていることが、ズバリズバリと、直球で語られている。

 

道徳は強制で、倫理は自由、とか。
心なんて不確かなものであり、夢と現実のあわいにあっても心は存在する、とか。

 

目次
第1章 心はどこ
 雨の風景  心の風景
 現実という夢 
 心で感じる仮想と現実
 倫理とはどこに存在するのか 
 正直者は馬鹿をみるか 

第2章 私とは何か 
 悩ましき虫の音 秋の夜 
 孤独の妙味
 寒い! 
 世の中 イデアだらけ 
 天才とはどういう人か 
 「コンビニエントな人生」を哲学する 

第3章 目に見えないもの 
 「生命」の漲る季節 
 夏休みは輝く
 自然 

第4章  言葉の力 
 言葉の力 
 動物のお医者さん 
 哲学とは? それが最も難しい質問だ。

 

哲学書というよりも、確かに、エッセイ集。最初は、雨の日は家の中にいると心落ち着くって話。 外で降り続く雨と、雨が降る風景を眺めている自分と。私の心の中で雨が降っているのだ。そう思っている心がそこにある。感じている世界が心である。私も子供のころ、冬の寒い日に家の中でちまちまと細かなことをするのが好きだった。外は厳しい世界。でも、家の中にいると何とも落ち着く感じ。雪とか降っていると、なおお家に守られている感じが好きだった。

 

第1章の「倫理はどこに存在するのか」という話では、公務員倫理法が制定されるという話題から。倫理とは何か?公務員は5000円以上の貰いものをしたら申告するとかしないとか、それが倫理法として制定されるのだという話。小学校の遠足のお菓子500円未満といっしょか?それは、倫理か???
池田さんは、倫理とはそもそも教わって身につけるものではなく、「したくないからしない」「嫌だからしない」というものだと。教わって身につけるのは、「してはいけないからしない」という道徳である、と。そしてそこには、「罰せられるからしない」という強制もある。

道徳は強制できるが、倫理は内的自由によって欲求されるものであり、誰かに強制されるものではないのだ、と。

道徳と倫理の言葉の使い方は、池田さんの定義が世の中一般定義と一致するのかはわからないけれど、「ルールだからやる」「だめとわれているからやらない」というのは、私にとっては道徳でも倫理でもないように思う。
道徳というのも、倫理というのも、自発的に考えるものではないのだろうか、と思う。

 

それが、道徳なのか倫理なのかはさておき、「他者から強制されて従う」というのは、やはり思考停止であり、責任放棄だと思うのだ。そして、ルールを作れば作るほど、人は自分で考えることを放棄し、無責任になる。私はそう思っている。思考する力がない子供にはルールが必要なこともある。でも、大人はルールだから守るのではなく、何故そのルールがあるのかを理解して行動することが大事なのではないだろうか。

 

公務員だけでなく、医師国家試験に倫理の科目が加わるという話も引用されていた。

「医師は患者の命を粗末に扱ってはいけない。〇か、×か。」

こんなのが、医師国家試験の問題になるって、いかがなものか。。。。これは、×と答える人がいるという前提で考えられた問題?まさか、ホントにこんな問題がでたわけではないだろうけれど。

 

「なぜ人を殺していけないのかわからない」という質問も思考停止だ。
そんなもの、自分で考えろ!!って。

 

だれかが考えてくれる、だれかが答えを出してくれる、誰かが決めたものにしたがっていればいい、そう思っていると決して倫理的になることはできない。

「納得いくまで自分一人で考えなさい」
というのが、池田さんの声。

 

YES!その通り!!

好きだなぁ。こういうの。

私は、別に他の人の意見を聞くのが嫌いなわけではないけれど、時々、自分の意見なのか誰かにいわれたからその意見に流されているのかがわからなくなるのが怖かった。中学生くらいの時からだと思う。家族の意見であっても、先生や友達の意見であっても、自分も心からそれに同意しているのか、言われたことでそう流されているのかがわからなるのが、落ち着かない気分になった。だから、早く独立したいと思っていた。尊敬する人の声であるほど、自分もその声に流されてしまうのが怖かった。自分の意思が、自分の心の声が聞こえなくなるのが怖かった。だから、一人でいる時間が好きだった。今でもそうだ。とことん、自分で考えることが好きなのだ。多分、池田さんもそういう人のような気がする。勝手に共感しちゃう。

 

薄い本なので、リビングでゴロゴロしながら読んでいたのだけれど、面白くて夢中になって、居眠りすることなくあっという間に読んでしまった。

 

最後には、ソクラテスとクサンチッペ(妻)の会話が出ている。クサンチッペが、ソクラテスに、「哲学って何なのかおしえてよ」っていう会話。これがなかなかわかりやすいし、面白い。もしかすると、ホントにこんな会話をしていたのかもしれない。

 

クサンチッペ:哲学って何?

ソクラテス:哲学なんてこと言いだしたのは、僕が最初とされているようだけど、僕はそんなもののことは知らんのだ。わかるかね?

クサンチッペ:わからない。

ソクラテス:ふむ。人が知りたいと思うのは、どうしてかな。

クサンチッペ:知りたいから。

ソクラテス:どうして知りたいのかな。

クサンチッペ:どうしてって、、、。

ソクラテス:人は、既に知っていることを、もう知りたいとは思わないはずだよね。

クサンチッペ:そうね。

ソクラテス:人が知りたいと思うのは、まだ知らないことのはずだよね。

クサンチッペ:そうね

ソクラテス人はそれを知らないと思うから、それを知りたいと思うことになるのだね。

クサンチッペ:そうね。

ソクラテス:ではひとは、知らないことを知りたいと思うとき、どうするものだろうかね?

クサンチッペ:人に訊く。

ソクラテス:ー。

クサンチッペ:本を読む。

ソクラテス:ー。

クサンチッペ:知らないからあんたに訊いてるんじゃない。

 

ソクラテスの答えは、人は知りたいことを知るために考える。人に訊いたり本を読んだりするのは哲学ではない。考えることが哲学なのだ、と。

 

はははは、、、なるほど。そうだ、そうだ。

面白い。

だから、”相手と君が同じことを理解できるなんて奇跡みたいじゃないか。この当たり前に気づいて驚いた 君は幸運だ。”となる。驚きは、考えることにつながるってこと。

当たり前のことを当たり前としか考えられない人には、落ちるリンゴもみても万有引力の法則は発見できない。

 

自分で考えるってことが、哲学の第一歩ってこと。だったら、私も私なりの哲学をしているのかな?なんてね。

 

彼女の本、もっと読みたい。 

渇きを覚える。そんな一冊だった。

読書は、楽しい。

 

御存命中に、もっと読んでみたかった。肉声を聞きたかった。米原万里さんもそうだけれど、出会ったときにすでに亡くなってしまってるって、残念だ。会えないとおもうから、なおさら惹かれるのかもしれない。死者の言葉は、不変だから。死んだ時から、ある意味古典になるのだ。