『散歩哲学』  by 島田雅彦

『散歩哲学     よく歩き、よく考える』
島田雅彦
ハヤカワ新書
2024年2月20日 初版印刷
2024年2月25日 初版発行


2024年3月23日の日経新聞の書評で紹介されていた本。

記事では、
”散歩を愛する作家がその魅力や体験記をつづった。「散歩ほどクリエイティブな営みはない」と断言する。遭遇する雑多な現象から妄想を膨らませるからだ。東京では酒屋の一角で酒を飲む角打ちを巡り、秋田では150年前にこの地を訪れたイザベラ・バードの足跡をたどり、ヴェネチアではバーカロと呼ばれるバーを飲み歩く。このネット時代に、生の現実、生身の他者からしか得られない情報の豊かさに気付かされる。(ハヤカワ新書・1078円)” とあった。

面白そうなので、図書館で予約した。順番が回ってきたので読んでみた。

 

表紙をめくると、
”「昔から思想家はよく歩く。哲学者然り、詩人然り、小説家然り、作曲家然り、・・・よく歩く者はよく考える。よく考える者は自由だ。自由は知性の権利だ」(プロローグより)。 直立二足歩行の開始以来、 人類が歩き、 地球に広がった。ルソー、カント、荷風らもまた歩き、 得られた洞察から作品を生んだ。忙しさにかまける現代人に必要なのは、 ほっつき歩きながら考える「散歩哲学」だ。 散歩を愛する作家島田雅彦が新橋の角打ちから屋久島の超自然、ベネチアの魚市場まで歩き綴った画期的エッセイ!”とある。

 

著者の島田さんは、1961年生まれ。作家。 法政大学国際文化学部教授。東京外国語大学ロシア語学科卒。1983年『優しいサヨクのための嬉遊曲』でデビュー。著作たくさん。2022年紫綬褒章を受賞。私の中では、鋭い切り口で論ずる人、というイメージ。いくつかの作品は読んだことがあるはずだけれど、、、細かなことはよく覚えてない。

 

目次
プロローグ
第1章 人類史は歩行の歴史 
第2章 散歩する文学者たち 
 コラム①「歩く」にまつわる言葉
第3章 孤独の散歩者の役得
第4章 ニッチを探す散歩
 コラム②  縄文の視点から東京を眺める
第5章 都心を歩く 十条・池袋・高田馬場・阿佐ヶ谷
第6章 郊外を歩く 登戸・町田・西荻窪
第7章 角打ち散歩 新橋・神田
第8章 田舎を歩く 屋久島・秋田 
エピローグ

 

感想。
ははは!
面白い!
「哲学」といいながら、単にあれこれ考えて語っている、、、ともいえる。島田さんがいうと哲学っぽくもきこえるから、面白い。「歩く」→「思考の時間」っていうのは、おおいに共感!!だから、私も歩くのが好きなのだ。歩いていると、頭の回転が良くなるような気がする。机に座って、じっと考えているよりも、歩いているときの方がいいアイディアが浮かぶ。あるいは、何かを覚えようと思ったときも、ウロウロしながらブツブツしながら覚えるのがいい。会社員時代、生産現場でトラブルが起きると、とにかくそこらじゅうをウロウロ歩きながら対策を考えた。現場・現認で、はじめてトラブルの本質が見えてくる。歩くことによって、五感が刺激されるからだと思う。目、耳、鼻、口、皮膚、、、身体のあらゆる部分が活性化して、脳が刺激されるんじゃないか、、、と、思う。そして、歩くことで心拍数があがるので、脳の血流もよくなるはず。思考が活性化しないわけがない!

 

プロローグの説明によれば、ほっつき歩くことをペルシャ語で「チャランポラン」というのだそうだ。いわゆる健康のためのウォーキングではなく、あえて徘徊、、、それをほっつき歩く、散歩とする。ちなみに、「散歩」は、インドネシア語では、「ジャランジャラン」だ。インドネシア人のスタッフがほっつき歩きながら、教えてくれた。
そして、
”散歩は暇をつぶし、退屈を埋めるための最も基本的な行動である。”と。

暇なときに、誰か一緒に散歩しないかなぁ、、、って思っても、たいていの友人は忙しくてそれどころではない、、、と。
散歩は孤独なのである。”
でも、私は、それがいいと思う。

だって、私にとっては、1人で思考するために散歩しているようなものだから。

 

第1章は、人類史は歩行の歴史、というタイトルだが、これがうまいこというな!って。もちろん、類人猿から二足歩行になって、ホモサピエンスになってきたという歩行の歴史があるのだけれど、それに加えて、赤ちゃんも、歩き始めるころから急速に人間らしくなっていく、と。なるほど、二足歩行が知能を発達させるのだと。赤ちゃんは、自分の意思で移動できるようになると、好奇心が刺激され、知性の拡張が急激にすすむのだろう、って。

 

二足歩行によって、移動の範囲が増える。外界からの刺激が増え、頭が動き出す。言葉の通じる対話の相手がいなくても、 単に そこに花が咲いているだけでも、 面白い形の石が落ちているだけでも、刺激となる。そして、それらの刺激によって、無意識に思考が立ち上がる。

古代人は、自然との対話を通じて、脳の抽象化能力や象徴化能力を鍛えたと思われる、って。

たしかになぁ。。。赤ちゃん、子どもだって、本物の自然に触れているときの方が、ゲームをしたりTVをみたりするより、表情豊かになる。それは、知能の発達につながっているのかもしれない。

「国破れて山河あり」も、よりどころとなる政治や経済が破綻しても、 最終的に戻って来られる場所は自然しかないということを意味する、と。

「国破れて山河あり」は、杜甫(春望)が、安史の乱のさなかの757年、春に長安で詠んだ五言律詩。そして、日本でも古くから現代まで、多く引用されている。人間は、、、地球人は、自然と共にしか生きられないのだ、、、と、私は思う。

そして、著者は、
” ただ 最後の頼みの綱である自然=神が環境破壊や放射能汚染によって不毛の地となり砂漠化すると、唯一絶対神への信仰に誘導されるかもしれない。 一神教は砂漠で生まれ育まれてきたからである。”と。
ちょっと、哲学っぽいことも。。。松岡さんの本でもでてきた。一神教は砂漠でうまれる、、、、って。「オレについてこい!」的なスピードが求められると、一神教なのだ、と。

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第2章では、散歩を好んだとされる作家たちの話。 萩原朔太郎永井荷風夏目漱石夏目漱石彼岸過迄は、シャーロックホームズみたいで面白そう。こんど、読んでみよう。
また、昭和天皇は、元々江戸城だった皇居内にあった9ホールのゴルフ場をつぶして、武蔵野の自然を土ごと移植したのだそうだ。さすが、生物学者のやることは違う、って。だから、皇居は自然にあふれているのだ。知らなかった。戦後の自然を破壊してゴルフ場などに開発する流れとは逆行することを、先取りしてやっていたのだ。
昭和天皇の戦争の経験を引用しつつ、
国が破れても、拠り所となる自然だけは死守したいと思ったかもしれない。”って。

そして、武蔵陵墓地は、天皇が亡くなると埋葬されることになっていて、 大正天皇明治天皇、そして 昭和天皇もそこに墓所がある。皇室と鉄道に詳しい政治学者・原武史さんによれば、「中央線というのは、皇居のある東京駅と墓所のある高尾駅を結んでいるから、現世とあの世を結ぶラインとなっている。」らしい。。。へぇ。。。だからといって、自殺者が多いとまでは言えないけれども、って。

 

第3章では、様々な散歩の魅力について。東京には、ノスタルジーを感じさせてくれる町はまだまだたくさんのこっている。海や川を散歩すれば、美しい漂流物に出会えることもある。ちなみに、「アンバーグリス」(龍涎香が見つかることもあるよ、って。良質だと200万円/Kgだってさ。鯨のお腹の中でできるやつ。アラビアンナイトにもでてきた。

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そして、漂流物だけでなく、食べられる植物だって散歩の最中にみつけることができる、と。私も子どものころ、父と近所の田んぼにいって、のびる、せり、つくし、などを取ったものだ。子供には美味しい!ってものではなかったけど、「採ってきた」ってところに喜びがあった。いまじゃ、、、採れるところが無くなってしまった。食料自給率の低い日本、本当にサバイバルするなら、1人1人が食べ物をゲットできる知恵をもたないといけないかもね、って。
ついでに、公園にお花を植えるのもいいけど、食べられる野菜を植えておく方がいいんじゃないかってさ。たしかにね。。。。。。公共の土地は、野菜など食べられるものなら勝手に植えてもいい、ってルールになっていないのかね。

私がホームレスになったら、まず第一に、畑をつくりたいぞ・・・。

 

” 生き延びるためには自分から歩いて外に出て行かないと何も始まらない。 歩けない人々から先に滅びてしまうのだ。”と。

あぁ、、、そうだね。
歩くって、自分の意思で、自分の思うところへ移動できるって、大事。

 

第4章から7章は、さまざまな国、地域の散歩物語。というか、、、飲み歩き、食べ歩きのエッセイに変貌している。それはそれで、楽しいけど、哲学はどこへやら。。。。いやいや、食べ歩き、飲み歩き、人とかたりあうことが哲学か。

 

歩くとは、誰かの後追いをするということである。道があるのは、誰かがかつてそこを歩き、踏み跡をつけてくれたお陰なのだ。「道」はしんにょうに「首」と書くが、これは生贄の首のことなのである。
だそうだ。。。。

たしかに。。。
私が歩く道は、ほぼ100%誰かが作ってくれた道だ。。。道なき道は、、、歩く勇気がない。あらゆる意味で。。。。ソレニシテモ、イケニエとは。。。

 

島田さんが散歩し、飲み歩いた数々の町の話も楽しい。屋久島は、縄文杉まで歩かれたそうだ。そして、白谷雲水峡も。屋久島をあるけば、アニミズムを感じずにはいられない。それを求めて、人はわざわざ足をのばしちゃうんだろうなぁ。。。私も、その一人だ。

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けどやっぱり、近所の散歩もいい。同じ場所へ行くにも、いつもと違う道を歩いてみると、新たな発見があったりする。

私は、散歩するときも、歩くときも、イヤホンで英語やオーディオブックをききながら、、、ということが多いのだけれど、たまには、イヤホンなしで歩きたくなる。その方が、、、実は、大きなインプットになることがある。

やっぱり、人間、マルチタスクは向いていないんだろうな。本を読むときも、音楽をかけていることがあるけれど、気が付けば、音楽がとまっていて、その方が本に没頭していることがある。

五感をフルにつかっていいのは、一つの対象に対して、、、だけかもね。 

 

さらっと読めて、楽しい一冊。

飲み歩き、食べ歩きがすきなら、なお面白いと思う。

 

読書は、楽しい。