『魂とは何か さて死んだのは誰なのか』 by  池田晶子

魂とは何か さて死んだのは誰なのか
池田晶子
わたくし、つまりNobody編

株式会社トランスビュー
2009年2月23日 初版第一刷発行
2009年3月20日 初版第二刷発行

 

池田さんの本だから、図書館で借りて読んでみた。
なんだか、すごいタイトル。池田さんが癌でなくなったのが、2007年2月23日。それから2年後に出版された本。

池田晶子公式ページからの引用が本の著者紹介の欄にある。

 

池田晶子(いけだあきこ)
1960年(昭和35年)8月21日、東京の一隅に生を得る。 1983年(昭和58年)3月、慶應義塾大学文学部哲学科倫理学専攻を卒業。 文筆家と自称する。池田某とも。
 専門用語による「哲学」から哲学を解放する一方で、驚き、そして知りたいと欲してただひたすら考える、その無私の精神の軌跡をできるだけ正確に表わすこと、すなわち考えるとは一体どういうことであるかを、そこに現われてくる果てしない自由の味わいとともに、日常の言葉で美しく語る「哲学エッセイ」を確立して、多くの読者を得る。
 とくに若い人々に、本質を考えることの面白さ、形而上の切実さを、存在の謎としての生死の大切さを語り続ける。

新宿御苑神宮外苑の四季風景を執筆の伴とし、
富士山麓の季節の巡りの中に憩いを得て遊ぶ。
山を好み、先哲とコリー犬、そして美酒佳肴を生涯の友とする。

2007年(平成19年)2月23日、夜、
大風の止まない東京に、癌により没す(46年6ヶ月)。 
著作多数。
さいごまで原稿用紙とボールペンを手放すことなし。
いながらにして宇宙旅行。出発にあたり、自らたって銘を記す。
 「さて死んだのは誰なのか」


そうか、タイトルの「さて死んだのは誰なのか」は、池田さん自身の最期の言葉だったんだ・・・。

 

表紙裏には、
”なぜ、あの人は その人であるのか?
 論理の先の不思議な気配を、
語り始めることの秘密とともに、 
哲学が辿りついた
感じる文体で考える。
旧版『 魂を考える』を大幅増補改訂。
ふたたび、魂を考える”
とある。


感想。
そうか、やっぱり、そうか。池田さん、あなたはそう思っていたんですね。生きている間に出会いたかったです。
って、そんな感じ。
「魂」のことなんて、誰がそんなに突っ込んでかんがえるもんか。「神」ではない。「魂」だ。池田さんは「魂を認識することの難しさに比べれば、神を認識するなんてのは、いかほど簡単なことだったか」と言っている。でも、魂について考えずにいられない人だったんだと思う。わからないから考える。考えて考えた挙句、やはりわからないということがわかる。無知の知を知っている人だったんだと思う。


目次
Ⅰ 魂を考える
Ⅱ その人を考える
Ⅲ 魂を語る文体は
Ⅳ 魂の〈私〉をやってゆく

 

最初の Ⅰ 魂を考えるは、「ポスト・オウムの〈魂〉のために」、という項から始まる。魂について考えようと思ったけど、わからない!という池田さんの叫びから始まる。でも、或る時、「意識」を考えていた時に、ぴたっときた、、、。

”全てを認識する誰でもない意識が、にもかかわらず誰かでない〈私〉であるのは、それが〈魂〉だからである。”

そして、「意識」という言葉の代わりに古代哲学で使われた「プシューケー」(生命・霊魂・心)という、哲学の原点に帰ってきた、と。現象学で「意識」といわれるそれば、分析哲学では、「主体」という。「魂」とは言わないのだ。

そして、「魂」の言葉が生きのびられる唯一の場所が宗教だったはずなのだけれど、新興宗教オウムの顛末を嘆き、、、救われるべきは信じる人ではなく、「魂」という言葉そのものなのではないか、と。簡単に、「魂」という言葉はつかえない。だから、、『魂を考える』なのだ。

 

かつ、「私探し」なんて意味がなく、そんなものは探さなくても、ここにある!と。

哲学史上、最も優れた成句は二つ。
ソクラテスの「無知の知
デカルトの「我思う、ゆえに我あり

 

出だしは、ちょっと、難しくてよくわからんぞ、、、と思ったのだけれど、読み進めると池田さんの語りが滲みてくるように伝わってくる。

 

ちょっと、覚書。

 

・”人は様々な可能性を抱いてこの世に生れてくる。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう。しかし彼は彼以外のものにはなれなかった。”
小林秀雄の文章が引用されている。どうやら、池田さんにとって小林秀雄は数少ない尊敬する人のひとりだったようだ。

魂が、そうしているから、彼は彼にしかなれなかった
えっと??うん。わかる。うんそうかもしれない。魂と彼とどっちが先?
私と私の魂はどっちが先??

うん、よくわからないけど、読み進めよう・・・・。

 

・池田さんは、ヘーゲル哲学を初めて読んだ時、「あ、私はこれを知っていた」と感じた。
え、、、、っと。ヘーゲル哲学って、どんなんだっけ?

『フランスの高校生が学んでいる10人の哲学者』、から復習。

megureca.hatenablog.com

6.ヘーゲル(1770~1831)
弁証法・歴史の蓄積で歴史を学ぶ・理解することへの情熱
アドバイス:言いなりになるのが嫌で、動けなくなってしまったあなたへ
「この行動は、本当に自分の意思によるものなのか、自分が選んだことなのかわからなくなってしまったあなた。人間の自由は、行動の源にあるのではなく、行動の結果である。つまり、自由とは行動によって生まれるものなのだ。まず行動すればいい。」

 

行動ありき。

 

神戸の少年A(1997年、当時14歳の犯行)について、精神科医の柴田二郎氏が、「別の世界の人間である」といったことについての文章。柴田さんは、精神科医の直感として少年Aは「理解できない」と認めてしまっているのだ、と。そして、池田さんは
”人間の形が同じでも、人間の中身が同じとは限らない。この世界には、時々、この世界の人間ではない人間がいる。”と。
「理解不能」な人は、いるのだ。そして、そういう人は、そういう〈魂〉なのだ、、と。そして、実のところ、我々はそれぞれ別々の〈魂〉である限り、お互いに別の世界に生きているといっていい。と。

うん。私にとっても、理解不能な人がいる。また、私の事を理解不能な人もいるだろう。みんな、別世界で生きている。そう言ってしまえばそれまでだ。でも、共存する必要があると感じれば、自分の世界をちょっと隠してみたりする。そうやって、社会は回っている気がする。

 

「道徳とは強制であり、倫理は内的直感によって欲求される。
どこかほかでも読んだ。うん。なるほど。

 

「死には、原因など、ないのである。」人は、生れてきたら、死ぬものなのだ。
人は、癌で死ぬのではない。生れてきたから死ぬのだ。
「がんでなくても、人は死ぬ」

 

・”脳死は人の死”と、1997年6月17日に可決されたことについて。池田さんは、よくもこんな無茶苦茶な理屈を平気で法律にする気になったもんだ、と言い、”私は臓器を誰にもあげない。いや、正確には私が「あげたい」と認めた人にだけあげたい”と。

私も脳死と臓器移植については、懐疑的だ。免許証に「臓器移植への意思表示」を書かせるなんて、国家暴力以外のなにものでもないと思う。暴力だと思う裏には、私は「NO」と思っていて、「NOっていうなんて、冷たい人だ」と思われたくない、って思っている自分がいるからだ。臓器移植が悪いといっているのではない。でも、私は人の臓器をもらってまで生きていたいと思わない。長生きが善とも思っていない。命を粗末にしていいとも思っていない。でも、自分が持って生まれた命のままに生きればいいじゃないか、と思ってしまうのだ。幼い子供が闘病していたり、亡くなってしまう話を聞くのはつらい。だけど、だからと言って、短い命だったからと言って、それが不幸であったなどと、誰が言えるだろう?延命して長生きしたら幸せだと、誰が言えるだろう???
私には、そこのところがわからない。

自分が当事者になっていないから、そんなことを言えるのかもしれない。でも、だって、そうなんだもん。誰かが死んでその臓器が自分のところに回ってくるのを待つ人にはなりたくない。当事者じゃないからそんなこと言うんだ、っていわれても、仕方がない。だって、そうなんだもの。

その代わり、バイオテクノロジーの力で、人工臓器が作れるようになるのだったら、応援したい。わたしは、人工臓器だったとしても、欲しくないけど。

 

池田さんの
「長く生きることが善なのではなく、善く生きることだけが善なのだ」という言葉に、強く共感する。

そして、
「子供にアメリカで心臓移植を受けさせたい、そのためには1億円のお金がかかる。親と支援団体が”人々の善意”を頼りに募金活動をしている。ということを、善意のニュースが報じている。やっぱり、これは、違うのではないか。アフリカでは多くの子供が、食べる物もなく日々死んでいく。」と。


うん。これも、ちょっとわかる。ユニセフに寄付をすることはあるけれど、○○ちゃん移植のために、、というのに、私は寄付をしたことがない。とはいえ、○○ちゃんが、知っている子供だったら、寄付しちゃうかもな、とも思う。別に、私には確たる固い方針があるわけでもないのだ。

 

・池田さんのお父さんは、朝日新聞社編集委員だったということ。しかも、かなり有名なかただったようだ。池田さんは。「朝日新聞は好きでない。」と言っている。でもちょっと変わっている自分の父を雇っていた奇特な会社としては好きだ、と。

実は、私の父も朝日新聞社の社員だった。一般的に言えば、お堅い、人だと思う。ちょっと、池田さんと共通点をみつけて、嬉しくなった。

 

・”犬とは、犬の服を着た魂である。そして、人間とは、人間の服を着た魂である。”
そうか、そう考えると、なんか、すっきりすることがある・・・・。魂が人間の服をきているだけ、か。そして、たまに「別の世界」の魂がいたりする。だから、分かり合えない。しょうがない。そういうものだ。そう思うと、楽ちんかもしれない。


・”ユング自伝』が面白い!”、そうだ。フロイトと全然違って、面白い、と。うん、、いつか読んでみるか、、、いつかという日は永遠にこない、っていうけどね。ユングの前に、池田さんの本をできるだけ読んでみようと思う。

 

・”「形而上学」を「現実離れ」の別名と思い込んで笑うこの大衆。”、、、そして、アラヤ識へと。アヤラ識こそが真に生成するもの。。。。

 

最後の方は、池田さんが尊敬する人々との話がつづられている。埴谷雄高大森荘蔵井筒俊彦、藤澤玲夫、、、。そして、古典が好きだと。鬼籍の人か、存命の人かは関係ないけれど、存命だとすれば、安心して読める存命の人の本は、古典と似ているのだ、と。養老孟司さんのものは、『論語』にそっくりだ、と。

古典や養老さんの本に共通しているのは、”迷いがなく、力に満ち、にもかかわらず、ここが肝心なところなのだが、決して主張してはいないということである。”と。

うわぁ、、、そうそう、そうだよね。ほんと、共感。

 

あぁ、これもわかるなぁ。。。

『木に学べ』(西岡常一)は、最近読んだ本のなかで、これほど迷いがなく、力に満ちた本はないと思った。古典だ。 

megureca.hatenablog.com

ちょっと、長くなっちゃったので、この辺にしておこう。

 

うん、いい本だ。

読書は楽しい。