『幸福に死ぬための哲学  池田晶子の言葉』  NPO法人 わたくし、つまりNobody編

幸福に死ぬための哲学 
池田晶子の言葉 
NPO法人 わたくし、つまりNobody編
講談社
2015年2月23日 第1刷発行

 

図書館で目についた 池田晶子さんの本を借りてみた。池田さんの様々な著書からの言葉を抜粋した「池田晶子の言葉集」だった。

 

目次
人生 何のためにいきるのか
幸福 あなたはなぜ満たされないか
愛と孤独 孤独の味わい方
自分 「自分探し」では自分は見つからない
善悪 一切は君の自由だ
世の中 金の儲け方を教える前に
科学と情報 情報があれば賢くなるか
言葉 言葉が人間を創る
老い 体は人生を渡るための舟
死 終わりではなく始まり 
考える精神 悩むより先に考えよ 

 

様々な著書からの引用が、少しずつ掲載されている。あぁ、他で読んだな、と思う言葉もあれば、初めて見る言葉もある。でも、池田さんの思考に一度でも触れたことがあれば、どの言葉も驚かない。納得。そして、、、、目にして納得したにもかかわらず、時と共に忘れている、大事なこと。。。。
一冊、手元に置いておいてもいいかな、という気もした。いや、もっと、池田さんの本を読んでからにしよう。。。

そもそも、「幸福に死ぬための」という言葉も微妙だけれど、池田さんの「生きることは死ぬこと」に近い思想から、編集者たちがつけたんだろうな、と思う。

「死」の項ででてくるのだけれど、池田さんは、「自分の死はない」と言っている。これは、養老孟司先生も、よく言っている。「死んじまってる自分には、自分の死を悲しむとかできないんだ」、って。長く闘病した末の死なら、もうすぐ自分は死ぬんだな、って自覚はあるかもしれないけど、死んでしまった自分のことはわからない。だって、死んじゃってるんだから。死ぬ瞬間、あぁ、これで楽になるとか思うのか?死んだ人に訊かないとわからない。。。

池田さん曰く
「生死することにおいて、人は完全に平等である。すなわち、生きている者は必ず死ぬ。
癌だから死ぬのではない。生まれたから死ぬのである。すべての人間の死因は、うまれたことである。どこか違いますかね?」
と。


覚書を始めれば、きりがないほど、どの言葉もずんっと心に響く。「ぼぉっといきてんじゃねぇーよ」って、怒られる感じ?

出典を読んだことがまだない『残酷人生論』が、気になる。図書館で予約しておこう。

ひとつ、抜粋。

 

”あなたはなぜ満たされないか

「幸福」の名で、人が反射的に、「暮らし」もしくは「暮らしぶり」を表象してしまうのは、一体いかなる習性なのか。 いつ頃なのからの癖なのか。しかしこの習癖それ自体が、実は見事に不幸を示している。 「幸福」の語によって、あれこれ 中身を表象する人の不幸は、たとえばそこには 必ず比べる心があることだ。 自分と他人を、自分の暮らしと他人の暮らしを比べる心があることだ。 しかし 、自分の幸福に完結している魂が、いかなる理由があって他人のそれらを気にするだろう。
 なぜ人は自分で幸福であろうとはしないのだろうか。 自分以外のいったい誰が幸福であることができるのだろうか。”


人と比べない。そんな簡単なことが、大人になるとなかなかできなくなる。あるいは、人からの評価を気にする。いわゆる、世間の目を気にする。世捨て人になるのが良いと言っているのではない。自分の価値基準をもって、自分で自分の欲するところを、節度を持って、、、自分が生きる社会制度で許される枠の中で生きていくなら、それほど幸せなことはないはずだ。人は、自分が心から欲することが何なのか、わからなくなるから、人と比べるのではないだろうか・・・

自分が本当にしたいことなんて、ほんとは、分かっているようでわかっていないかもしれない。お客様に喜んでいただくのが嬉しい、人の役に立てるのがうれしい、それはそうかもしれないけれど、やっぱり、そこには、それで喜んでいる自分がいるからうれしい。。。

自分の心を満たすのは、自分しかいないのだ。
そんなこと、知ってる。わかってる。でも、もしもそれを実践できていないなら、それは、分かっているとは言わない。。。

 

言葉 言葉が人間を創る」 とうい言葉にも、ハッとさせられた。

本書からひとつ抜粋。出典は『死とは何か

 

”魔法の杖

言葉は道具なんかではない。言葉は、自分そのものなのだ。
だからこそ、言葉は大事にしなければならないのだ。言葉を大事にするということが、自分を大事にするということなのだ。自分の語る一語一句が、自分の人格を、自分の人生を、確実に創っているのだと、自覚しながら語ることだ。そのようにして、生きることだ。
 言葉には、万物を創造する力がある。言葉は魔法の杖なのだ。人は、魔法の杖を使って、どんな人生を創ることもできる。それは、その杖を持つ人の、この自分自身の、心の構えのひとつなのだ。”


通訳の世界でも、「言葉が人格を決める」と言われることがある。どの言葉を選ぶかは、その人の「人格」である、と。

一方で、池田さんは、
”人は、「自分の言葉」を語ってはならない。”とも言っている。
それは、単なる個人の意見をやたらに主張するべきではない、ということ。誰にでも正しい本当の言葉を獲得したとき、語っていいのだ、、と。


「我思う、故に我あり。」デカルトは、個人の意見で言ったのではなく、不変の言葉としていったのか。うん、そうかもしれない。。 

 

私がこうして綴っているのは、単なる個人の意見であり、主張すべきことではないかもしれない。でも、ブログっていうのは、誰かに強制的に読んでもらおうというものではないから、いいことにしよう。

私は、言葉にすることで、文章にすることで、頭の中の整理をしたいのだ。整理しないと、語れない。でも、絶対に正しいことなんて、語れない。そもそも絶対に正しいことって何??

だれかにアドバイスするつもりもない。あくまでも、私の個人的意見だ。

それでも、こうして綴りながら、普遍的な原理原則とはなんなのか、頭の整理をしたいと思っている。

 

言葉にすることは大事だ。

そして、その言葉が人生をつくるのなら、やっぱり、言葉を大事にしよう。

 

うん、読書は楽しい。