『暮らしの哲学』 by  池田晶子 

暮らしの哲学 
池田晶子 
毎日新聞社 
2007年6月15日 印刷 
*初出 『サンデー毎日』2006年4月16日号~2007年3月4日号

 

先日読んだ、『言葉を生きる』(池田晶子 ちくまQブックス)のなかで、次に読むべき本としてリストされていた一冊。
図書館で借りてみた。

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池田さんが亡くなったのが、2007年2月23日ということなので、もしかするとがんと闘う病床で書かれたものもあったかもしれない。そうであっても、池田さんの言葉はブレない。ブレない強さがある。だから、読んでいてストレートに気持ちいい。池田さんは、犬と酒をこよなく愛していた。そんな様子が伝わってくる、本作は、哲学であるけれど、エッセイみたい。週刊誌の連載エッセイ、という感じだったのだろうか。

 

目次




それぞれの季節に、10数作品が綴られている。最後にもどってきた春は、ひとつ、だった。

 

最初の春は、「春は残酷な季節だ」という安岡正太郎の文章の話から始まる。春は、始まり。始まりは、痛み。。。なんども、始まりを繰り返し経験すると、痛みがあるということがわかるようになる気がする。そう、始まりは、わかれと隣同士。不安と痛み。それが春。

本書の中で、池田さんは、哲学と思想の違いを何度も語っている。池田さんの定義によれば、

哲学=自分で考えるもの
思想=とってつけるもの

言い換えると、考える行為そのものを「哲学」といい、考えた結果、表現された言葉の側を「思想」といってもいいかもしれない、と。

つまり、大学で哲学を学ぶのにプラトンにしようか、アリストテレスにしようか、などというのは哲学ではない。自分の頭で考えるということが哲学なのだから、哲学を学ぶって、それじたいが矛盾したことば。哲学は、学ぶのではなく、哲学するのだ。

あ、、、これって、「数学する」っていう岡潔の感覚と似ている。。。

 

そして、「社会思想」と「哲学」をごっちゃにする悪弊は、マルクスあたりから始まっている、と。

”ひとむかし前よくありましたよね。社会に対する私的なルサンチマンを哲学と称して正当化するようなヤツ。社会なんてものの存在をかくも信じ込んでいて、どこがラジカルなんだか。”

あはっ。私的なルサンチマンを哲学だの思想だのというひと、いつの時代もいるよね、、、。

 

他にも、気になったことを覚書。

 

・「自分であり自分でない体」
 最近疲れやすい、という話から始まり、自分でありかつ自分でないところの肉体とのつ気合方、間の取り方は、年を取ってわかるようになった、と。
そして、
”この歳になると、顔を見ればその人がわかるという部分が確かにあります。その人の人生というか、経験の質のようなものが、一瞬でわかるということがどうもある。最近そのバリエーションに加わったのが、病気を知っている人と知らない人。これもどうやら違いますね。50,60の歳まで、病気を知らず、風邪くらいしかひかず、元気に思うように生きてきた健康優良な人は、よく言えば明朗で気持ちの良いものですが、悪く言えばツルッとして面白みがない。心にダシが効いてないぶん大味で、話していてどうにもつまらないような感じがする”

笑ってしまった。どうも、私は、池田さんの言うところの大味でつまらない人の部類になりそうだ。ま、健康だけでなくても、人生の山谷はあるんだけどね。とはいえ、やはり、健康が何より。健康の不安は、他のすべての不安を凌駕する。体が資本


・「自分の消滅」
言葉について。言葉こそ、ロゴスこそ、全てである。そして、語る言葉は「普遍」であるべきであり、「自分の言葉」なんて語ってはいけない、と。池田さん哲学が登場する。相対的な自分を自覚したときに初めて言葉がわかる。聞きかじったことは、自分の言葉ではない。だったら、沈黙しているのがいい、と。そして、「真理はひとつ」なので、誰が言ったかは関係ないのだと。
一方で、
”さっきは、内容を掴んだら誰か それを言ったかは関係ないと言いましたが、今度は逆。 内容ではなく形式 こそ命、 文体が印象されなければ何を言っても同じです。 何を言うかではなく、「どう言うか」。 そうでなければ 文章を書く必要なんかないでしょう。 例えば、 小林秀雄、あの忘れようもない文体、 誰にも真似できないその独自性、それは、彼が「何を言ったか」ということよりもはるかに我々を魅了するものでしょう。同じ内容のことは、他の思想家でも言っていますが、そこにはまるで花がない。文章には花がなければ つまりません。”

小林秀雄がでてきた。そうか、彼の文章は「どう言うか」が違うのか。ちょっと、わかる気がする。あの、格調高くありそうでいてべらんめぇ調であったり、確かに魅力の文章なのだ。内容がわからなくても、なんだか、魅了される文章なのだ。その秘密は、「どう言うか」だったのか。。。。

 

小林秀雄の文章は、高く評価されているが、英訳されていないので海外での知名度は低い。それは、英訳するのが難しすぎるから、と言われている。つまり、英訳によって表現できない「言い方」が、彼の文章には秘められているのだろう。なるほど、と納得。

 

・「夏休みは輝く」
小学生の子供のころ、夏休みが好きで好きでしょうがなかった、という話。学校から解放され、子供はその本来である躍動的生命へ変えることができる、と。
それは、普通に共感する。心の残ったのは、次の一文。
”早起きして学校から持ち帰って朝顔の鉢に水をやり、たくさんの花が咲いているのを見て嬉しく、 次にラジオ体操に出かけてスタンプをもらい、 午前中に家にいられるとは何という僥倖かと感動し、 それから プールへ行ったのだったか、 自転車で遠出したのだったか 、デパートへ連れて行ってもらったのだったか。”

とにかく、夏休みが楽しくてうれしかった、という小学生時代の話なのだが、小学生が「僥倖」とはいわんだろう!!と、思わず、突っ込みたくなった。もしかして、池田さんは小学生のころから僥倖です、とか言っていたのだろうか。まさかね。ちょっと笑った。

 

・「情報弱者」にも言わせてほしい
池田さんは、パソコンや携帯電話を使っていなかった。自ら考えたことを書くということを仕事にしているので、外からの情報はいらないのだ、と。でも、人はパソコンや携帯電話は便利だから使えという。便利とはなんなのか?そして、綴る。

”そもそも、このコンピューター社会の基本理念であるところの「便利」という思想、 これが諸悪の元と言えます。「便利」の何がいいことなのか。 
 おそらく人は、そんなこと考えてみたこと なんもないでしょう。便利なことは無条件でいいことだと現代人は思い込んでいますからね。
 「便利」の別名は、「早い」ということでしょう。手間が省ける、時間が省ける、目的地に早く着く、つまり時間が短縮できるということが現代人にとっての価値なのです。それなら、人は一体何のために時間を短縮したいのか。 何がしたくて、何の時間が欲しいのか。
改めて考えると これが全く 明確でない。

おぉ、痛い所突かれた!って感じ。

「何がしたくて、何の時間が欲しいのか」。
この一文を自分の頭で考えるだけで、半日、、、いや一日、、、使えそうだ。

タイム・イズ・マネーとはいうけれど、何のためのマネーなのか。。。

 
・「どうしても知りたい」
人とわかりあう、という主旨のなかで。ダイアローグとディベートはまったく違うものだが、それをわかっていない人が多い、と。そして、ダイアローグすべきところを出来ない人についてのコメント。

”じっさい、相手を言い負かすために議論を仕掛けてくる人と議論するほど、うんざりすることは 滅多にないですね。 その人の目的は、相手を言い負かし、 自分の意見を主張することであって、 真実を知るためにものを考えるなんて、そんな行為が人間にありえることすら知らないような 蒙昧な状態のわけです。よって相手の話を聞く気が最初からないのだから、まあ話にはなりませんわ。そんな人々が集まって、開かれた対話の場と称してああだこうだやっているのを見ると、独善同士がお前は独善だと我が我を張り合っているとしか見えない。 内なるダイアログを知らない人に、外なる ダイアログ は不可能です。”

ごもっとも。

 

・「好き嫌いとの付き合い方」
人間も、動物も、好き嫌いがある。理屈ではなく、嫌いなものは嫌い。あの人が嫌い、あの犬が嫌い・・・。ピーマンが嫌い。シイタケが嫌い。根性の悪い人は嫌い。
ピーマンが嫌いなら、食べなければいい。
根性の悪い人が嫌いなら、付き合わなければいい。
そう考えると、楽になる、、、と。

”存在することは認める、でも私は関知しない”

そう、それでいいのだ。

そして、
”これ以上は遡(さかのぼ)れないという自分の思考、 つまり 原点に気づいた時こそ、人は自分の魂の求めに従い 、自らの人生を送ることができるようになるのでしょう。”

自分がほんとうに好きなものが見つかるというのは、しあわせだ。まさに、僥倖だ。

 

・「男ってバカなんじゃないか?」
おもわず、ブッと声をだして吹き出してしまった。女の子が好きな男の子のタイプは、小学校の時の「運動できる子」から、高校生くらいなると「アートの才能のある子」になって、さらに大人になると「頭のいいひと」になっていく。運動できて、アートの才能合って、頭がよくてお金も稼げれば最高だ。一方、男が好きになる女は、小学生から中年まで、一貫して「可愛い子」ではないのか。
”面白くもないというか、芸がないというか、ひょっとしたら男はバカなんじゃないかと思う。”
って。
ほんと、おもわず、吹き出してしまった。。。。
男性の皆様、ごめんなさい。
でも、おもいあたるところ、なくもなく、、、ない???なんて。

他にも、たくさん面白い話が出てきた。自分はちょっと変だってことに気がついたけれど、養老孟司さんと話してみたら、自分以上に変だった、とか。

 

池田晶子さん、面白い。

亡くなってしまっているのが残念だ。

でも、亡くなってしまっているからこそ、今後ブレようがない哲学、ともいえる。

 

何が正しいとか、何が本当にしたいこととか、、、実のところ、すべては変わるんだよね。変わらないものはない。それだけが変わらないこと。

 

今、こう思う。だから、発信する。それが普遍的なことになるのを待っていたら、一生発信できない。だから、わたしはこんな中途半端でもいいことにする。

 

読書は楽しい。

それでいい。