『解剖学教室へようこそ』 by 養老孟司

解剖学教室へようこそ
養老孟司
ちくま文庫
2005年12月10日 第1刷発行
2020年9月5日 第16刷発行
*本書は、1993年6月25日、筑摩書房よりちくまプリマ―ブックスの1冊として刊行されました。

 

養老先生の『老い方 死に方』で、対談相手だった南直哉さんが解説を書いているという話題ででてきた。

megureca.hatenablog.com

1993年の本だけれど、文庫本となり、今なお増刷されている養老さんの本。図書館で借りてみた。

表紙は、解剖学らしく骸骨さん。そうなのだよ、養老先生は解剖を専門とされたお医者さんなのだよ。。。本の裏には、
”どうして解剖なんかするのか。 気味が悪くはないのか。からだはどのようにできているのか。解剖すれば、ほんとうにそれがわかるのか。「動かぬ肉体」から説き起こし、解剖学の歴史を縦軸に、ことばの役割、ものの見方、心とからだの問題など、幅広い視野から人という存在を捉えなおす。養老センセイの、ここが原点。  解説 南直哉
とある。

 

感想。
やっぱり、おもしろ~~~い!
言葉と解剖が一緒とは、これいかに?!物事を細分化する作業であるところが一緒なのだと。 養老さんの独特の語り口調のままで綴られている感じが、また親しみやすく、読みやすい。221ページの文庫本。あっという間に読んでしまった。一気読み。だって、面白い!
そして、中には、専門書からの図の引用もあったりして、生々しいところもある。レオナルドダヴィンチだって、身体の仕組みを知りたくって、身体を描いた。昔は写真なんてなかったから、解剖してみたものをスケッチにして残すしかなかったのだ。だから、絵が下手だと、解剖をしても情報を残せない。たしかに、なにかを観察するとき、「朝顔の観察日記」じゃないけど、絵で表現するというのは一番手っ取り早い手段。そして、そこに、パーツごとの言葉をいれると、はい、解説図の完成!って。頭という言葉と、胴体という言葉があるから、頭と胴体は切り離して考えることができる。解剖も、切り離して観察する事ができる。なるほど・・・。物事の細分化。それは、人間が本能的にやらずにはいられない作業なのだ、と。政治家や会社の派閥闘争も細分化の一つということ・・・。

 

目次
第1章 解剖をはじめる
 はじめての解剖
 私の解剖のはじまり
 系統解剖とはなにか
 解剖したいはなぜ腐らないのか
 死体はどこからくるか
 
第2章 気味がわるい
 死体のぶきみさ
 顔と手の役割
 からだは自然のもと
「死んだら、モノ」
 
第3章 なぜ解剖を始めたか 
 人体をバラバラにする
 内臓と内臓でないもの
 背骨をもった動物

第4章 誰が解剖を始めたか 
 日本ではじめての解剖
 骨ヶ原の腑分け
 『解体新書』の成立
 古いものの見方

第5章 何が人体を作るのか 
 物質をつくる単位
 世界をつくる単位
 人体をつくる単位
 
第6章 解剖の発展 
 ヴェサリウスとその時代
 ヴェサリウスまでの時代
 レオナルドと解剖図
 ヴェサリウス以後の解剖


第7章 細胞という単位
 細胞の大きさ
 細胞は細胞から
 細胞のつくり
 細胞と分子
 からだと細胞
 
第8章 生老病死
 死ぬこと
 細胞はなぜ死ぬか
 機械としてのからだ
 器官としての組織

おわりに
 心とからだ 
あとがき 
文庫版 後書き 
解説 

 

目次をみただけで、内容が整理されてわかりやすい。

 

「どうして解剖なんかかじめたんですか」と色々な人に聞かれる。すると養老先生は、「面白いからです」と答える。すると「どこが面白いのですか?」となるのだと。医師免許は持っているけれど、患者を治すわけではないから、解剖をしても誰からもありがたがられもしない。でも、養老先生にとっては「面白い」のだ。

解剖のはじまりは、簡単にはなせることではない。でも、知ることは大事なのだ、と。

東京大学医学部解剖実習室の写真があるのだが、白いビニールに包まれた死体が解剖台にのっていて、それが、ずらっと、並んでいる・・・・。やっぱり、不気味だ・・・。そして、そこで行われるのが「系統解剖」というのだそうだ。病理解剖(病気の原因をさぐる)とか法医解剖(死因をさぐる)とは違う、「系統解剖」というものがあるのだ。それが、『解体新書』のもとのもと。(解体新書は、西洋医学所を翻訳した本)

死体は、多くは献体といって、生前に「死んだら私のからだを解剖して、医学にやくだててください」と決めた人。ただ、明治から大正、昭和の初期には、身よりや引き取り手のない人たちが解剖に役立ってくれていた、という時期もあったらしい。

養老先生は、「人は死んでもモノではない」という。モノだというなら、生きているうちからモノだ、と。死んだからって、急にモノにはならない。死ぬってどいうことか?それがよくわからないことなのだ。だから、死んで、ここから人はモノです、というわけにもいかない。そういう、よくわからないことを考え続けることが大事なのだという。

そして、学校で与えられる問題は「人の作ったもの」で「答え」がある。でも、自然には「答え」なんてないことがしょっちゅうある。答えのないことを考えるのが大事なのだ、と。人は死んだらモノか?という答えのない問題も、考え続けることが大事なのだ。

養老節が面白い。
”だから、言ったのである。「人の作ったもの」そればかりに慣れているから、「自然のもの」にはわからないところがあるということがわからなくなっている。学校の試験問題は「先生が作ったもの」である。 これは人の作ったものだから、普通答がある。相手が自然だとそう簡単にはいかない。自然に質問を投げかけると、答えが返ってくることもあるし、 返ってこないこともある。 下手くそな質問をすると答えが返ってこない。上手な質問すると、 例えばノーベル賞がもらえる。聞き方次第なのである 。”
って。

 

答えがあるのが当たり前とおもっちゃいけないってこと。それが自然科学。そして、私も、そういう世界が好きなんだ。そして仮説を立てて自然に聞いてみる。答えをくれることもあるし、くれないこともある。それが自然科学の研究ってもんだ。

なんでも、日本ではじめて解剖をしたのは杉田玄白ではないそうだ。それより前に、山脇東洋が、解剖をしていたのだ。当時は、解剖などとんでもない、と、解剖はゆるされていなかったのだけれど、それが必要だという医師である山脇らの訴えに、京都所司代となった酒井忠用(ただもち)がいいよ、と許したのだと。

頼んだほうもえらいが、許した方もえらい。”って、養老先生。

なるほど。昔は、人が死ぬ理由だってよくわかっていないし、それこそ解剖したら祟りがおきるとかおもわれていたかもしれないけれど、医師だった山脇が、人の体の中をしることが大事だって、うったえたのだ。そして、それを理解してゆるした。そういう歴史があったのだ。杉田玄白のほうが、日本における解剖の父みたいに習うけど、そうじゃないのだ。でも、杉田玄白が、蘭学書を日本語にしたというところがすごい。「神経」「軟骨」という日本語は、そのときにできた日本語だそうだ。よく考えると「神の経」「軟らかい骨」、そのまんまのような、よくできた言葉のような、、。

そして、山脇にしても、杉田にしても、いきなり医学や解剖だけがすごかったわけではなく、荻生徂徠(おぎゆうそらい)の漢学を学んでいたのだという。医師だった山脇は、荻生徂徠の学問をしったとき、大海にでたようなきがして、とても感激した。こんな考え方があるのか、と。そして、荻生学問に出会って10年後、49歳ではじめての解剖を行った。

 

養老先生は、「古いものを大切にするというのは、古いものをそのままにしておくという意味ではない。そういう古いものの見る味方、それをつきつめれば、そこからじつは、新しいことがわかってくる。」だから、「古いことの追求に意味がある」と言っている。
くわえて、

”これはちょっと、難しいか。でも、山脇東洋のように、40歳になれば、ぱっとわかるかもしれない”

って。

そして、自然科学も時間と共にどんどん発展し、解剖だって発展する。病気の原因だって、解剖によってわかることも増えてきた。昔の人にはみつけられなかったことも、わかるようになってきた。だからといって、

”昔の人は、バカだったなぁ。そう思っては、いけません。いまでも、ある部分では、昔の人と同じように、未来の人たちに、あの頃の人はバカだったなぁ、と言われるようなことを、考えたり、信じたり、したりしているに違いない。そうに決まっているのである。それが、歴史を勉強することで教えられる、大切なことのひとつなのである。”って。

 

死とはなにか。結局、人間は、自分の死は一生しらないのだ。だって、死んじゃったら、気が付かないんだから。死は、誰かの死しかない。解剖も、自分の体を解剖できるわけではない。私のお腹の中がどうなっているのかは、私は一生しらない。でも、一生、生きている間使い続ける自分の体。大事にしないとね。

 

ちなみに、死体が気味悪いのは、普通なら動く部分が動かないからだそうだ。目とか手とか。。。死体のお腹をみても、そんなに不気味ではないらしい。お腹はそもそもそんなに動かないから。良く動く目や手が動かないのが、不気味に感じるらしい・・・。

寝ているのか、死んでいるのか、、、誰もが一度くらい、子供の頃に親や兄弟の様子をじっと観察したことがあるのではないだろうか。いびきをかいていれば寝てるってすぐわかるけど、あまりにも静かに寝ていると、死んじゃったんじゃないかと、心配になったりして、じっと観察したりして、、、。瞼の下で目玉が動いたり、手足の先がぴくって動いたり、呼吸に合わせて胸が上下したり、、、動いていることを確認してホッとした記憶。

それは、観察が答えをくれるとき。相手が寝ているのか死んでいるのかを、観察だけで見極める方法なんて見つけても、ノーベル賞はもらえないだろうけど。自然科学の探求は、観察から始まる。そして、それは、写真にとるより自分でスケッチしたほうが記憶に残るし、細部に気が付く。偉大なイタリアの画家アンドレア・デル・サルトも画家になるなら自然をスケッチをしまくれといった。(『吾輩は猫である』)。自然は、先生なのだ。

 

養老先生の本、面白い。

いつまでも、書き続けてほしい。