カントリー・ガール
エドナ・オブライエン
大久保康雄 訳
集英社文庫
昭和52年5月30日 第一刷
昭和52年6月30日 第三刷
THE COUNTRY GIRLS (1960)
先日、新聞の訃報の記事が目に入った。
”アイルランドメディアなどによると、小説家のエドナ・オブライエンさんが27日、死去した。93歳。代理人は28日「長い闘病の末、安らかに息を引き取った」と発表した。
1930年、同国西部クレア州生まれ。父親が酒やギャンブルに溺れ、金銭的に苦しい幼少期を過ごした。60年に「カントリー・ガール」でデビュー。フェミニズム文学の草分けとして、女性を主題とした作品を描いてきた。(共同)”
読んだことはなかったのだけれど、アイルランド、、、ちょっと、気になった。93歳。フェミニズム文学ってどんなんだ?とは思うけれど、デビュー作という本書を図書館で借りて読んでみた。
昭和52年の初版。1977年。原書は、1960年。第二次世界大戦終了から5年。そのころのアイルランドって?現在のアイルランドだってよく知らない。
ググってみると、
”アイルランド共和国はイングランドとウェールズの沖合にあるアイルランド島の大部分を占めます。その首都ダブリンは、オスカー・ワイルドなど著名な作家の生誕地であり、ギネスビールの発祥地でもあります。9 世紀のケルズの書をはじめとする挿絵のある手写本もダブリンのトリニティ カレッジの図書館に展示されています。アイルランドはその緑豊かな自然環境により「エメラルドの島」とも呼ばれます。また、中世に造られたケアー城など数多くの城があります。”
オスカー・ワイルド(1854~1900)の方が、ずっと前の世代だけれど、文学的にはちょっと気になる独特の世界。
まぁ、ちょっとだけ覗いてみる気分で手にしてみた。
借りたのは、時代を感じる年季の入った文庫本。表紙裏の著者紹介には、
” 1932年 アイルランド、クレア州生まれ。幼時より作家を志し60年に「カントリー・ガール」を発表。以後「みどりの瞳」「 愛の歓び」 の 三部作を完成し、 キングスレー賞を獲得。イギリス文壇最前線で活躍する女流。”とあった。
裏の説明には、
”恋。幸福への期待。満たされぬ夢。 現実の手ひどい裏切り。美人で行動的なバーバラ と 正直で善良なケイトの二少女がアイルランドの片田舎から都会に出て、女として成熟する。 愛と性の喜びと苦悩を描いて〈女であること〉の意味をさぐる イギリス 女流のベストセラー。”とある。
10代の二人の少女は、農場にキツネがでるような田舎の村から、ダブリンへ、、、というお話。
感想。
ちょっと読むだけ、、とおもったのだけれど、あぁ、なるほど、、、と思いながらあっという間に読んでしまった。
面白いというか、あぁ、、、古き良き時代の文学、、、的な感想。まだ、女が男の付属物のような時代といったらいいだろうか、、、でも、そこでたくましく生きる女たち。。。主人公の二人の少女の関係性。なにもかもが、、、あぁ、、そういう時代があったのだ、、、って感じ。
そして、にわかに、、、ヨーロッパの片田舎にしばらく住んでみたいとおもってしまった。今ではすっかりかわってしまっているかもしれないけれど、先日読んだ『ブルターニュの歌』にしても、本書にしても、、、なんというか、20世紀のヨーロッパが懐かしく感じる。私は、ヨーロッパなんて住んだこともないのに、、、ヨーロッパの都会ではなく、田舎町に住んでみたい、、、という気持ちになってくる。
物語は、 裏表紙に説明があるほど二人の成熟には至っていない。だって、登場したときが14歳。本書おしまいでまだ18歳。まぁ、1950年代なら18歳は大人なのかもしれないけれど、まだまだこれから、、、っていうところで本書はおしまい。恋に破れて、それでも生きていくケイズリーン・ブラディ。その恋の相手も父親程年のはなれた既婚男性。大人にあこがれる少女が現実に打ちひしがれているところで、別の男性にであう。次作にこの男性がでてくるのかはわからないけど・・・。
なんとも、淡々と時間が流れる。ケイズリーンは酔っ払いの父親と優しい母親がいる。同級生のバーバは、子どもの頃からの女友だち。でも、いわゆる社会的クラスはバーバの家庭の方が上。そんな二人の10代が本書の時代設定。
友人同士だけれど、なんとなく、バーバがケイズリーンに対してマウンティングしている感じ。そして、ケイズリーンのママは、ある日、近所の男と湖で溺れて死んでしまう。ケイズリーンは、酔っ払いの父をおそれて、下男のヒッキーをたよるのだが、酒で借金を重ねていた父親のために、ヒッキーは仕事を続けることができずにダブリンへ行ってしまい、家は抵当にいれられ、知り合いの手に渡ってしまう。ケイズリーンは、しばらくバーバの家にお世話になることに。
酔っ払いの父に代わって、下男のヒッキーをたよっていた幼いケイズリーン。そこから大人の男性への憧れが芽生えていたのかもしれない。貧しい農家だけれど、下男がいるという設定も、なんとも時代的。
そして、成績優秀だったケイズリーンは、奨学金を得て修道院にいくことで、父親の元を離れることができるようになる。やっともバーバと離れられると思っていたのに、バーバは獣医の父にお金をだしてもらって、同じ修道院へ行くことに。ちょっと嫌だな、って思っていてもやはり幼なじみなのだ。心細さは軽減される。
ようやく家をでて大人の女性への階段を歩み始めたのだが、地獄のような修道院生活に嫌気をさした二人は、怪文書(神父とシスターができているという性的文書)を書いて、わざと退学処分となって自宅に戻る。3年間の修道院生活をおえて地元にもどった二人は、ダブリン(都会)へでることとなる。本来なら、修道院ですごす5年だったのだが・・・。
ケイズリーンは、修道院に行く前から、近所に住むミスター・ジェントルマン(本名ではないけれど、フランス人で、紳士だったのでみんながそう呼んだ)に気に入られ、デートにさそってもらえるようになっていた。年上のジェントルマンに恋するケイズリーン。ダブリンで食料品店で働くようになったケイズリーンのもとに、ジェントルマンは会いに来てくれる。ときには、プレゼントもくれたりして。ジェントルマンは、もともとダブリンで弁護士をしていた人なのだ。
ダブリンにあるケイズリーンの下宿先にやってきたジェントルマンは、ケイズリーンと二人きりになったときに、君の裸がみたいと言い出す。その日は裸を見せ合うだけだった。そして、ウィーンに旅行に行こうとさそう。不倫旅行だ。そして、約束の日、約束の駅にむかったケイズリーンだったが、まてどくらせどジェントルマンはやってこない・・・。
打ちひしがれて下宿に戻ると、ジェントルマンからの電報が入っていた。
”万事くるってしまった。 君のお父さんからの 威嚇、 そして妻がまた神経の発作で倒れたのだ。 残念だが、 このままじっとしているほかはない。 君と会うことは許されないのだ。”
何時間も泣いたケイズリーン。ひどく寒気を覚えて、お茶を入れに階下へおりたところで、未知の若い男と出くわす。泣き顔でひどいことはわかっていたけれど、
「お茶をあがりませんか?」と声をかける。
「わたくし、英語、わかりません」と答える若い男。
部屋に戻って、お茶でアスピリンをのんだケイズリーンの描写で本書は終わる。
最初から、三部作で、続きがある前提でかかれたのかもしれない。
全部、「わたし」=ケイズリーンが語っている形でつづられている。すごく盛り上がる場面がある感じでもない。ママが溺れて死んでしまうことも、第三者からきかされるように淡々と語られる。修道院の生活のひどさ、我儘な少女たち。貧しさと豊かさの対比。酔っ払いの父親だけれど、父親と縁切りすることもできない少女。ずるい大人たち。嫁の尻にしかれた下宿先の夫。儲けが一番の食料品店の夫婦。
なんとも、、、淡々としているのに、その世界にひきこまれるような力強さ。
うん、悪くないなぁ。
さすが、文壇最前線だったわけだ。
しいていうなら、瀬戸内寂聴さんの小説みたい。。。あるいは、、、山田詠美か?
表紙裏にあった、オブライエンの写真は、片手で煙草をくわえている姿。桃井かおり風?なアンニュイさ。時代だなぁ・・・・。
う~ん。悪くないのだ。
淡々としているけれど、なんだか、惹きこまれる。古典的力強さかな。
今度ヨーロッパに遊びに行く前に、続きの二冊も読んでみよかな、って気になった。
読書は楽しい。
やっぱり、小説はストーリーだけでなく、描写が楽しい。