マンガ日本の歴史 27
桃山文化と朝鮮侵略
石ノ森章太郎
中央公論社
1992年1月5日 初版印刷
1992年1月20日 初版発行
『マンガ日本の歴史 26 関白秀吉の検地と刀狩』の続き。
26巻では、 本能寺の変で死んだ信長の敵討ちをした秀吉が、 家康と対立しつつも天下をとりにいく。27巻では、その時代に文化と海外にまで触手を伸ばした秀吉の動き。
目次
序章 北野大茶会
第一章 秀吉と利休
第二章 文禄の役 第一次朝鮮侵略
第三章 方広寺の完成と大破
第四章 醍醐の花見
秀吉の作った贅沢三昧といえば、大坂城と聚楽第(じゅらくてい)。
1587年 (天正15年) 9月13日、 関白太政大臣豊臣秀吉は、 完成したばかりの 聚楽第に居をうつす。 聚楽第では狩野永徳の濃絵(だみえ)、 海北友松(かいほうゆうしょう)の水墨などのが飾られた。
この時代の永徳の活躍と、長谷川等伯との物語は、安部龍太郎の『等伯』が面白い。
そういえば、ここでも、聚楽第の襖絵で競い合う狩野派と等伯のはなしがでてくる。
1587年 天正15年10月1日、秀吉は、 九州制覇の達成と 聚楽第の完成を祝って、 北野天満宮で大茶会を開催する。利休も秀吉も、自ら茶をたてた。黄金の茶室まで作った。 日本人だけでなく 外国人の参加も認められ、 町人やどんな人でも参加できた。とにかく大勢が参加した大茶会だった。
千宗易(せんそうえき:利休)は、信長時代から茶頭として取り立てられていたが、秀吉は、茶道のものたちですら支配しようとした。自らお茶をたてるというのも、自分がトップだという意思表示だった。
千利休の「利休」という名前は、64歳の時に秀吉にいわれて名乗るようになった名前。
秀吉は茶湯を有力な武器として政治に巧みに活用した。 秀吉の行くところにいつも利休がいた。しだいに、利休は茶頭の立場を越えて、 政治の場においても強い 発言力を持つようになる。 石田三成らは、次第に利休への反感をたかめていく。
三成たちは、大徳寺の山門に利休の木造が飾られているのはけしからんとか、利休は売僧の頂上の俗人だ、などと秀吉に吹き込み、「利休に切腹を申し付ける」と言わせる。
そして、、、とうとう、利休は切腹させられる。
なんてこった。
本書の中では、秀吉は、利休といっしょに堺の街も切り捨てた、と。そして、秀吉の目は海の向こう、唐入りへと移っていく。
1591年、2月に利休が死に、9月には、秀吉の嫡男 鶴松が急死。 秀吉は甥の秀次を養子にして関白を譲り、唐入りに専念するようになる。
1592年 文禄元年、 小西行長 加藤清正 らの率いる軍勢が、朝鮮・釜山浦の海面を埋め尽くした。秀吉は、朝鮮だけでなく、天竺までをも治めるつもりでいた。最初は、勢いのあった日本軍だったが、明の援軍がやってくると、戦いは膠着状態となっていく。そして、明軍に押されて日本軍は後退。朝鮮出兵のために築いた備前の名護屋城で、秀吉と明の使いが会見。文禄の役は、停戦となる。
そんな時、側室淀殿に男子誕生。拾丸(ひろいまる)、のちの秀頼が誕生したことで、秀吉の生き方は、嫡子にすべてを受け継がせたいという欲求に突き動かされるようになる。
関白は、秀次に譲ったはずだったけれど、秀頼が生れたからには、秀頼につがせたい・・・。そういう、自分勝手な秀吉の思いが、家臣団の分裂をうむ。
秀次は、朝廷に金を贈ったのは謀反だといわれ、高野山に追放され、28歳にして切腹となってしまう。秀次の妻妾・子女30人余りも三条河原で斬首。。。。ひどい・・・。
そのわずか二か月後、豊臣家の氏寺・方広寺が完成したとおもったら地震で崩壊。1596年の京の大地震。 秀吉が全力を上げて築き上げた方広寺の大仏は、 完成後 1年足らずで破損大破した。
1596年9月、土佐国にスペインの船、サン=フェリペ号が漂着。かつて秀吉はキリスト教の信仰を認めていたが、徐々に弾圧へと変化していく。そして、サン=フェリペ号をきっかけとして、大弾圧に乗り出す。
1596年 11月、 京で 石田三成に命じ、 キリスト教信者を捕らえ、 耳を切り、 首に縄をかけ 伏見・大阪・堺を引き回した後、 長崎に送り、浦上で処刑した。世に名高い「26聖人の処刑」。
そして、再び朝鮮へ出兵。日本軍は、戦闘員だけでなく、非戦闘員までも殺戮の対象とし、殺戮の証拠として敵の首の代わりに耳を切りとって、送った。殺戮した数が多いほど、恩賞がもらえたので、だれかれ構わず殺したのだ。ひどすぎる。
そして、方広寺の傍らに、「耳塚」が 建てられた。
闘いは泥沼化。。
1598年、病気に倒れた秀吉は、死後の体制として五奉行( 石田三成、 長束正家、 増田長盛、 浅野長政、 前田玄以)をさだめ、 徳川家康 ら 五大老を伏見に呼んで、秀頼の今後を託した。
8月、秀吉、62歳で没する。
秀吉は、朝鮮への出兵や秀頼のこと、いろいろこの世に未練の残して死んでいったのだろうか・・・。ちなみに、秀吉の墓は、京都市東山区の豊国神社にある。社殿は、方広寺大仏殿跡地に建てられた。なんだか、秀吉と京都ってあまり結びつかないのだけれど、、、、。
次巻からは、いよいよ江戸時代の到来!