『わたしの渡世日記 上』 by 高峰 秀子

わたしの渡世日記 上
高峰 秀子
文芸春秋
1998年3月10日 第1刷
2011年1月25日 第11刷

 

楠木健さんが『楠木健の頭の中 仕事と生活についての雑記 』の中で、人生の軸とするほど惚れ込んだと書いていた、高峰秀子さんの『わたしの渡世日記』。

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図書館で借りて読んでみた。

 

高峰 秀子さんは、大正13年1924年)北海道生まれ。五歳の時「子役」として映画界にデビュー。その後、「二十四の瞳』「浮雲」「名もなく貧しく美しく」など多数の映画に出演。著書に「私の渡世日記」(日本エッセイスト・クラブ賞受賞)「いっぴきの虫」「旅は道づれアロハ・オエ」(夫の松山善三氏との共著)「台所のオーケストラ」「おいしい人間」「にんげん蚤の市」「にんげんのおへそ」「人情話 松太郎」などがある。平成22 (2010)年12月28日肺がんのため逝去。享年86歳。

 

私は高峰さんが女優として活躍されていた時代をよく知らない。でも、本書をよんでいると、まさに、戦前・戦後の時代だったということがわかる。高峰さんの人生の振り返りは、日本の戦争の歴史と重なった。日本が戦争に突入していく様子、2.26事件、、、、生の、一生活者としての体験が、女優としての職業人生と重なっている。とはいっても、本書は、女優人生を振り返ったというわけではなく、人生そのものの振り返り、という感じだろうか。なかなか読んでいて気持ちいリズム感と内容。

 

昭和50年、週刊朝日の記念プラン連載エッセイで、週に1回、1回分が400字詰め原稿用紙で十枚以上、期間は一年間、という約束で始まったエッセイだったとのこと。高峰さんにとっては、びっくり仰天の依頼。それまでも、文章はかいていたけれど、4000文字を書き続けるという申し出に、最初は断ったそうだが、、、ああ言えば、こう言う、扇谷編集長に押されて、結局は引き受けること。それが後にこうして文庫本になったということ。

昭和50年、私は生まれているけれど、小学校に上がったころ。まったく、本書の存在なんて別世界。でも、父は週刊朝日をよく自宅に持ち帰ってきていたから、もしかするとちらりと目にしたことくらい、あったかも?

何はともあれ、そんな高峰さんのエッセイ集。


裏の説明には、
”女優・高峰秀子は、いかにして生まれたか―複雑な家庭環境、義母との確執、映画デビュー、養父・東海林太郎との別れ、青年・黒沢明との初恋など、波瀾の半生を常に明るく前向きに生きた著者が、ユーモアあふれる筆で綴った、日本エッセイスト・クラブ賞受賞の傑作自叙エッセイ。映画スチール写真、ブロマイドなども多数掲載。”
とある。

 

目次
雪ふる町
旅のはじまり
猿まわしの猿
土びんのふた
つながったタクワン
父・東海林太郎
母三人・父三人
ふたつの別れ
お尻がやぶれた
鎌倉山の女王
一匹の虫
八十三歳の光源氏
神サマのいたずら
紺のセーラー服
血染めのブロマイド
鬼千匹
ピエロの素顔
兄は馬賊だった
にくい奴
ふたりの私

青年・黒澤明
恋ごころ
鶴の化身
神風特攻隊撃隊
同期の桜

 

感想。
ほほぉぉ。。。
普通に、面白いエッセイ。なんだけど、、、、高峰さんの芯の強さがずしんと伝わってくる。特に、教訓めいた言葉がたくさんなるわけでもなく、週刊朝日の連載エッセイといわれると、なるほど、と思う。軽く読める。それでいて、知性にあふれているというのか、生きる力にあふれているというのか、、、、肩ひじ張ったところもなにもなく、素のままの自分をさらけ出している高峰さんの強さというのか・・・・。

 

エッセイには、それぞれタイトルがあるので、目次を見返すと、あ、あの話、ってわかるくらい、わかりやすいエッセイ。

 

高峰さんは、幼少の頃に叔母に引き取られて養子となった。それは、父の事業の失敗だの生母の死だの、いろいろな背景があったのだろうけれど、養母となった「平山シゲ」は、高峰さんが生れる前から生まれた子供を養子にもらうことになっていた。高峰さんが生れたのは、関東大震災の翌年。大正13年
 高峰さんの祖父「平山力松」、つまりはシゲの父は、明治34年生まれ。日露戦争の兵役からもどって、妻わき(3人の子供がいた)を離縁して、19歳の若い後妻と結婚したという、まぁ、我が道を行く人だった。その激しい気性を引き継いだシゲ。シゲは、若い男と暮らしていて、その男が高峰さんの養父となったわけだが、これが、どうしようもなく風来坊だった。その男と散歩している途中で、うっかり?松竹映画の子役オーディションに出くわし、そのままオーディションをうけたら合格。そして、5歳にして子役デビュー。

 

ところどころに、写真が載っているのだけれど、これがまた、可愛い。大人になった女優としての高峰さんのブロマイドを見ても、私にはピンとこないけれど、やっぱり、素敵な人だ。

そして、5歳にして一家の稼ぎ頭になり、活躍するようになるにつれて、扶養家族が増えていった・・・。一家みんなが高峰さんの稼いだお金を頼りに暮らしていた。戦争中も。

 

昭和6年、交野尋常高等小学校へ入学した高さんだったが、当時の映画会社には組合もなく労働基準法というものもなく、ほとんど学校に行く暇もないほど働いていたそうだ。ゆえに、「学業コンプレックス」が生涯ついて回った、と。

でも、女優としての役作りで、超一流の師匠に琴をならったり、自分の演技の至らなさに気が付いて、本気で声楽を学んだり、学校ではないところで高峰さんは十分に「生きる」ということを学んでいる。それが、この強さなんだろう。撮影の合間に読む本に夢中になったとか、学校の代わりに高峰さんに読み書きを教えてくれる大人が周りにいたとか、全ては、高峰さんが自分でつかみとった「運」なのだと思う。松竹から東宝に引き抜かれ、憧れの女子学生として通学するつもりが、やはり撮影が忙しすぎて卒業することはできず、でも、自ら女優業を選んだ。5歳から身についた職業婦人としての意志。あっぱれである。

黒澤明がまだ監督として有名になる前から親しくしていたのを、周囲の無理解で引き離されてしまったという過去、原節子の美しさにほれぼれしたという話、笠智衆やそうそうたる俳優陣に可愛がられた時代、、、、愛されキャラだったんだな。それは、この文面にもにじみ出る素直さと強さなんだろう。

楠木さんが「生きる軸」というのも、ちょっとわかる気がする。

 

ちょっと、覚書。
・子供を俳優にしようと躍起になっている親たちをみていると身の毛がよだつ、と。
「人間形成は幼児期に、とは何かのコマーシャルで見たような文句だが、、、大人はせいぜい心して子供に対して欲しいと思う。一寸の虫にも五分の魂があり、その魂は大人のそれよりも”鋭敏”かつ”怜悧”である。子供には、感受性はあっても、大人の鈍感さは無い。

 

二・二六事件のあった日のこと。
”・・・皇道派青年将校が千余人の兵を率いてクーデターを起こし、斉藤内大臣、高橋蔵相を殺害、東京中に戒厳令が布告された。ラジオの声はくり返した。「決して外出をしないでください。窓枠には夜具布団を積み重ね、その陰にいてください・・・・」
事件の真相は皆目わからぬままに、それでもようやく慌て出した母と私は、たった一つの窓のそばへありったけの布団を積み重ねた。
26日が暮れ27、28日と不安な日が続きやがて29日には、「下士官兵に告ぐ・・・・今からでも遅くないから原隊に帰れ・・おまえたちの父母兄弟は国賊となるので皆泣いているぞ・・・」という説得ビラがまかれ、ラジオ放送が繰り返された。将校は戦意を失って自殺、または投降し、ようやく母のいうゴタゴタの幕は下りたのであった。

二・二六事件は1936年のことなので、高峰さんは12歳くらいということだろう。何が起こっているのかは、わからなくても、とんでもないことが起きたというのは感じていた。
そのころから、高峰さんは本屋に足を運び、本を読む楽しみを覚えるようになった。

 

・高峰さんの尊敬する森繁久彌からきいた、満州時代の中国人の話が好きだという。
森繁さんが満州の家でペンキ屋を読んで汚れた家の中を真っ白に塗り替えた。ペンキが乾いたところで子供たちがいたずら書きをしたので森繁さんはカーとなって子供の頭をぶん殴って怒鳴った。その時親しくしていた中国の友人が森繁さんチョットコッチニキテクダサイと言って、家の外によびだした。なにかとおもったら、
「森繁サン、アナタハコドモガ、ラクガキシタコト、オコッタケド、遠クカラ見レバ、白イヨ。ラクガキナンカ、キニナラナイヨ」
と言われてたという話。
悠々としていて、広大な大地に生きる民族の心が躍如している、と高峰さん。

そんな中国大陸に、高峰さんのブロマイドは兵士たちの胸に抱かれていった。そして血まみれになった・・・・・。

 

東宝に移籍して、せっかく通えるようになった女学校だったけれど、出席日数が足りず、学校をとるか、俳優をとるか、と学校に迫られる。俳優を選択した高峰さん。

”「学校へ行かなくても人生の勉強はできる。私の周りには良いもの、悪いもの、美しいものも醜いもの、何から何まで揃っている。そのすべてが今日から私の教科書だ。」私は私をねじ伏せるようにして自分に向かって言い聞かせた。くやしまぎれのふて腐れと思われようがなんだろうが、私にはこの道しか歩いてゆく道はない。私は流れる風景に向かってつぶやいた。”

俳優業が好きだったということだけではない。自分が稼がないと、親戚一同総倒れになることを10代の高峰さんはわかっていた。
5歳から、一家の大黒柱として家族親戚を支えてきていたのだ。

 

・映画「小島の春」で杉村春子の名演技をみて、自分の演技を第三者の眼でみるようになった16歳の高峰さんは、自分が「ダメの子せんべい」と思う。自分は一生懸命にしゃべっているはずの台詞が、一本調子の上にもぐもぐと口ごもって聞きづらい。はっきりしろと怒鳴りたくなるぐらいだった。そして、発声の勉強を一から始める。自ら音楽部の戸を叩き、奥田良三、長門美穂という先生について発声をやりなおした。訓練しているうちに自分でも自分の投資が目に見えて効果を上げているのを実感できた。二人の先生の授業料は、決して安いものではなかったけれど、高峰さんが自分で決めた自分への投資だったのだ。

私は自分のことは「自分」ですることに慣れている。長い映画生活の間には、何度か決断を迫られる問題に出くわした。そのたびに私は貧しい脳みそをかきまわすようにして、自分の方向を決めた。結果は成功もあり、失敗もあり、傷つき、泥まみれ、数え切れぬほどの恥もかいてきた。私は中国の諺にある「昼のために夜がある」という言葉が好きだ。苦労は苦労のためにするのではなく、明日という光明に向かっての下塗りだと思わなければ、とてもじゃないが無数の恥をブラブラぶら下げて生きてゆけるものではない。” 

 

う~ん、かっこいい。

なんというか、一世を風靡した女優さんの書いた文章とは思えない。あんまりにも率直なのだ。でも、そこに文章のうまさと、読みやすさがある。

お会いしてみたかったなぁ、高峰さん。

まだ、下巻がある。

楽しみ。