さびしさの雲霧、悲しみの雲烟  

さびしさの雲霧 と 悲しみの雲烟

 

「隣の国のことばですもの  茨木のり子と韓国」 by キムジヨン 

2020年12月25日 出版 、のなかで、出合った言葉。

2021年3月にアカデミーヒルズで紹介されていた本。

 

寂しさの雲霧。

悲しみの雲烟。

読んだとき、胸がぎゅっと痛くなるような気持ちがした。



私は、この本に出合うまで、茨木のり子さんを知らなかった。終戦1945年を19歳で迎えた茨木さん。軍国主義だった少女がある日突然民主主義者となる自分自身への不信感、戦争の不合理。茨木さんは、それをまっすぐに受け止めて言葉で表現してみようと思った表現者。著書の中で同年代の詩人として、石垣りんさんが紹介されていた。先月読んだ「詩歌の待ち伏せ」ではじめって知った詩人が石垣りんさんだった。数週間の間に、石垣りんさん、茨木のり子さん、二人の詩人に出合った。神様が、私にもっと詩を読めと言っているのかもしれない。

 

谷川俊太郎も参加していた雑誌「櫂」は、川崎洋と茨木さんが、創刊した。それも、私はしらなかった。

 

茨木さんが、終戦の頃に不合理を感じた民族への差別、当時一番身近に感じたのは、朝鮮人への差別。日本国内にいた米兵への不合理な偏見。そんなことを、変なことと思いながらも、受け流している自分への侮蔑をこめたような、本当はそんな風に思いたくないと思いが、詩の中から感じる。世間に流されたくない自分の思いを、詩にすることで世間に伝えたのかもしれない。

 

本の中でいくつかの詩が紹介されている。

中に出てくる表現で、

”さびしさの雲霧”

”悲しみの雲烟”

悲しみやさみしさの塊がひしひしと伝わってくる表現だと思った。

 

”さびしさの雲霧”は、通りかかった黒人兵に対して瞬時に無関心を装い目をそらした自分と、そんなことをした自分自身へ、そしてそれを受け取った黒人兵の哀しみを描いている。「行きずりの黒いエトランゼ」という歌の中。

 

”悲しみの雲烟”は、夫が他界した後、彼の通勤路を歩きながら感じた大きな喪失感。「駅」という詩の中にでてくる。

”わが胸の肋骨(あばら)のあたりから 吐息のように湧いて出る 悲しみの雲烟”

 

世の中の不合理に、いつも悲しみを抱えて生きていたのだろうと感じた。いわゆる昭和世代の一人かもしれない。戦後を20前後で迎えた世代。

 

著書の中では、なぜ、彼女が夫の死後にハングル語を学び始めたのかについて、彼女自身が後年に語った「だって、隣の国のことばですもの」の逸話がでてくる。彼女がハングルを習い始めたのは、1976年。韓国に対する日本人の反応は、あまり積極的ではなく、”なぜハングルを勉強するの??”と驚かれるような時代。夫の死の悲しみを紛らわすためとか、適当なことを言っていたが、のちに、「だって、隣の国のことばですもの」と言うようになる。

 

1970年代、戦時中に学校へ通っていた年頃の韓国人は、日本語ができた。日本が日本語を使わせたから。でも、同世代の自分は、ハングルを話せない。今度は、自分が必死になってハングルを勉強する番だと茨木さんは思ったのだ。なんというか、潔い感じに、心打たれた。

 

どんな本だか知らずに手にした本だけど、茨木のり子さんを知ることができてよかった。私は、本当に知らないことが多すぎる。でも、今回、出会えてよかった。

 

彼女の詩を、別途、読んでみたいと思う。

せっかくなので、彼女の詩を2つ、記録しておく。



「わたしが一番きれいだったとき」

 

わたしが一番きれいだったとき 

街々はがらがら崩れていって

とんでもないところから 青空なんかが見えたりした

 

わたしが一番きれいだったとき

まわりの人達が沢山死んだ

工場で 海で 名もない島で 

わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった

 

わたしが一番きれいだったとき

だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった 

男たちは挙手の礼しか知らなくて 

きれいな眼差だけを残して皆発っていった

 

わたしが一番きれいだったとき 

わたしの頭はからっぽで 

わたしの心はかたくなで 

手足ばかりが栗色に光った

 

わたしが一番きれいだったとき 

わたしの国は戦争で負けた 

そんな馬鹿なことってあるものか 

ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

 

わたしが一番きれいだったとき 

ラジオからはジャズが溢れた 

禁煙を破ったときのようにくらくらしながら 

わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

 

わたしが一番きれいだったとき 

わたしはとてもふしあわせ

わたしはとてもとんちんかん 

わたしはめっぽうさびしかった

 

だから決めた できれば長生きすることに 

年とってから凄く美しい絵を描いた フランスのルオー爺さんのように  ね




「倚(よ)りかからず」 

 

もはや

できあいの思想には倚りかかりたくない

もはや

できあいの宗教には倚りかかりたくない

もはや

できあいの学問には倚りかかりたくない

もはや

いかなる権威にも倚りかかりたくはない

ながく生きて

心底学んだのはそれぐらい

じぶんの耳目

じぶんの二本足のみで立っていて

なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば

それは

椅子の背もたれだけ




「倚(よ)りかからず」 は、松岡正剛さんの千夜千冊で取り上げられてもいた。また、人と人がつながった。正剛さんも茨木さんを読んでいたのね、と思うと、ますます、茨木さんの詩を読みたくなる。

 

「倚(よ)りかからず」 は、今まさに私が同じことを叫びたい。

73歳の時の詩だそうだが、強さが美しい。

気持ち良い詩に出合えた。

本に感謝。

「モノの書き方」

「モノの書き方」 話題の達人倶楽部[編] 2016年11月5日

 

たまたま、図書館の棚で目についたので手に取ってみた。

私は、文章の書き方をちゃんと勉強した記憶がない。

多分、我流で、見様見真似でやってきたのだと思う。

例文が、〇、×、で示されているのでわかりやすい本だった。

一回読んだからと言って、そう書けるようになるわけではないだろうけど。

 

様々な場面で書かれる文章を想定している本だと思うが、主にはビジネスや公文書を想定していると思われる。

 

「ワイドショーのナレーション」は、大げさ表現の見本。という項が面白かった。

大げさな表現は、読む人を辟易させるもの。

×「流行の居酒屋に潜入、人気の秘密を探った」

〇「流行の居酒屋を訪れ、人気の秘密を探った」

居酒屋に「潜入」はオーバー。「訪れる」で十分、とのこと。

確かに番組の宣伝文とかにありそうで、笑ってしまった。

 

広辞苑によると、

潜入(せんにゅう)

①こっそり入りこむこと。

②水中にもぐり入ること。

③恒星または惑星が月の背後にかくれる現象。

④「仙入」とも書く。スズメ目センニュウ科の鳥の総称。

 

惑星や、鳥の名前だったとは、知らなかった。

 

「岩波国語辞典 第二版」も、ひいてみた。

見つけられないように、ひそかに入り込むこと。

としかなかった。

 

ちなみに、「こっそり入り込む」という英語なら、

Infiltration into ~. 

あるいは、

sneak into ~.

日常会話では、潜入もinfilrationも使う機会はなさそうだけど、一つ勉強。

 

「の・の文」、「が・が文」 というのは、初めて聞いた。

~の~の~の~が、とか、

~が~が~が、、、とか。

みっともない文章の代表らしい。

 

×「日本経済が危機に瀕していると、多くの経済学者が述べているが、日本経済が真価を発揮する時代がこれから来ると予測がされている報告もある。」

 

〇「日本経済は危機に瀕していると、多くの経済学者が述べている。その一方で、日本経済はこれから真価を発揮すると予測する報告もある。」

 

なるほど、みっともない文章。

たしかに、が・が文章、読みにくい。

 

間違った日本語も指摘されている。

×「お体をご自愛ください」

〇「ご自愛ください」

たしかに、「お体を大切に」と書こうとして、「お体、ご自愛ください」と書きそうなきがするので、気をつけよう。

 

否定分よりは肯定文のほうがよい、というのも勉強になった。

 

具体的な事例が並べれれた本で、いわゆるマニュアル本のようでもあるけれど、私には新鮮な本だった。

本から、私をさがしてくれたのね。

ありがとう。

 

 

 

 

 

 

ノブレス・オブリージュ

この数日間で、「ノブレス・オブリージュ」という言葉に何度もであった。

 

*身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという欧米社会における基本的な道徳観。もとはフランスのことわざで貴族たるもの自分にふさわしい振る舞いをしなければならぬの意味。

 

この注釈は、佐藤優さんの「人生、何を成したかよりどう生きるか」で引用されていたもの。

 

佐藤さんは、著書の中で「鬼滅の刃」も引用している。キョウゴクさんだったかな?が、母親に「なぜ自分が人よりも強く生まれたのか分かりますか」と問いかけ、「弱き人を助けるためです。」という場面。「生まれついて人よりも多くの才能に恵まれた者は、その力を世のため人のために使わなければなりません。天から賜りし力で人を傷つけること私服を増やすことは許されません。」

 

たぶん、日本でも「ノブレス・オブリージュ」と同じような考え方はあると思うけれども、それをさす一言で言える日本語はないのかもしれない。

 

日本の古くからの教えは、身分にかかわらず、清く正しく、ということが基本にあり、あえて身分の高い人向けの教えのようなものは、一般には浸透してこなかったということなのかもしれない。

 

日本人にとって、「徳を積む」というのは、身分の高い低いには関係なく、なんとなく良いことであることが当たり前で、あえて、言葉にして責務をしめすような物言いはなじまなかったのかな、とも思う。


私は、ノブレスではないけれど、私なりの社会的責任をはたしていけばいいのだな、と思う。

 

「人生、何を成したかよりどう生きるか」 by 佐藤優

内村鑑三の名著「後世への最大遺物」のメッセージをわかりやすく解説している。「後世への最大遺物」は、ただ、それだけでも、心に響く。若いころから、何度も読み返した。内村鑑三が、若者に向けて多少砕けた感じで語りかける感じが、心地よいのだと思う。「残すべきものはまずお金、次に事業である」「誰もが残せる唯一のものがある」。読んだときに、自分の置かれている立場で、響いてくる言葉はかわるけれど、いつも、この本には勇気づけられる。1894年7月の二日間にわたる講義の内容だというのに。100年以上前である。でも、人の本質は変わっていないっていう事なのだろう。

 

「まずお金」というのは、ストレートに、そりゃそうだ、と納得できるし、人には何も物を残せなくても、文学は一人でもできるし、文は残せる、という言葉が今の私にはとてもありがたい言葉。

 

それに加えて今回は、佐藤さんの解説がついている。

佐藤さんは、コロナで先行き不透明な時代のなか、「読者が少しでも励まされ、生きていくためのささやかな光を見つけ出してくださることを願って」書いたとのこと。

 

Life:生きること。生活

Live:生きる

Live:生き生きしている

 

私なりに、私のできることをして、生き生きと生きることができたら幸せだ。

将来のために、今の時間を使おう。それも、社会的責任を全うすることに重要なことだと思う。近視眼的にならず、5年、10年先に生き生きと生きることができるように。

 

ノブレス・オブリージュ

 

この言葉に、何度も出合ったのは、自分のやるべきことを今こそ見直せ、といわれたきがした。

4月、新年度だし、また、心新たに楽しもう。

「多読術」 by 松岡正剛

「多読術」 松岡正剛さん。

 

非常に読みやすい。日本語がこなれている感じ。さすがだ。

それにしても、また、読みたい本が増えてしまった。

本ではないが、松岡家によくあったという「主婦の友」、「文藝春秋」も手にしてみよう。

そうだ、2Bの鉛筆をかってこよう。

 

「読書とは編集すること」。

そう、Megurecaも、頭の中の整理、編集のために書き始めたのだったと、思い出させてくれた。

言葉の編集。

 

 

本好きな人なら、きっと誰もが憧れたことがあるであろう松岡正剛さん。

私が初めて正剛さんの本に出会ったのは、ほんの2年くらい前だろうか??

最初のきっかけは、佐藤優さんの「君たちが忘れてはいけないこと」を読んだ中で興味をもってこの人のことをもっと知りたいと思った。しらべてみると、松岡さんの「宗教と資本主義」という本の中で、須賀敦子さんのことを書いているという事がわかって、ますます興味を持った。

 

私にとっては、

佐藤優さん ⇒ 軸のブレない思想が勉強になる。

須賀敦子さん ⇒ カトリックの教職者だった友人の先生で、友人がベタホメしている人。

ということで、

松岡正剛さんは、すごい人に違いない、と思った記憶がある。

 

それから、箱根本箱に行った時に、松岡さんの「擬」という本を見つけて、それはそこでもざっと読んだのだがさっぱりわけがわからなくて、帰宅してから Amazon で購入しいつか向き合おうと思ったまま、まだちゃんと向き合っていない。

ちなみに、「擬」の花布と表紙厚紙は真っ白。

 

そんな私の何となく憧れの人である松岡さんの「多読術」を読んだ。

「多読術」は昨日(2021/4/8)紹介した「本を味方につける本」の中でも紹介されていた本だった。

これはたまたま。

「多読術」は2009年4月10日の出版、ちくまプリマー新書

 

まず、松岡正剛さん流の本の読み方。

本は2度読む。

鳥瞰力と微視力。著者にも興味をもつ。

 

鳥瞰力って、抽象化するという事ともつながってくる。

 

松岡さんでも、一度読んだだけでは、内容が思い出せないことがあるそうだ。

 

松岡さん曰く

「読書というのは書いてあることと自分が「まざる」ということなんです」。

 

自己編集でありかつ相互編集でもある。

 

また読み方の方法として面白い紹介が、「本をノートにする」ということ。

つまり、本にどんどん書き込め、ということ。

 

私は本が増えると家に置き場が無くなるので、最近は電子書籍であったり、一旦は図書館の本を借りて読むことが多い。すると本に書き込みすることはできないのだが、やはり、これは手元に置いておきたい!と思った本は、紙の本として購入する。

でも、買った本でも、なかなか実際にペンを入れるというのは、結構心のハードルが高い。別に古本屋に売るためにと思っているわけではないけれども、本が汚くなってしまったらと思うとなかなか実際には書き込みできない。

書き込みするのに2 B の鉛筆を使うと。養老孟司先生が2 B の鉛筆を使って書き込みをするので、手元に2Bの鉛筆がないと、本に集中できないそうな。

 

でもとにかく本に書き込むというのは本をよく読む人がよくやる事なんだと思う。

私は本に書き込む代わりに、本を読む度にマインドマップを書いている。

自分で書いたマインドマップなのに後から見るとよくわからないことはよくあるのだが…。

 

今回、「多読術」を読んでやっぱり良かったなと思ったのは読んでみたいという本がいくつか出てきたこと。

正剛さんが本を読む最初のきっかけが、母親からプレゼントされた「ノンちゃん雲に乗る」というなんとも可愛らしい本だったということも微笑ましく思った。

 

それから音読から黙読ができるようになって、読むスピードは飛躍的に上がったというのもとてもよくわかる。

 

後は、読書とは編集することという考え方から、本をマッピングする、年表を作る、フレーズ・センテンスを書きとって、引用ノートにする。

結構面白かった。

 

「あとがき」から読んでも良い。そりゃそうだよね。

私も時々そうする 。

 

また、明治の小説を読むときは、渋茶と塩煎餅を食べながらに限るという松岡さんにも共感する。

 

本はその中身もそうだが、どんな環境でどうやって読んだかも結構重要。

ベッドの上で読んだのか、電車の中で読んだのか、はたまた机に座って割と真剣に読んだのか。

なにはともあれ、本をたくさん読んでいると、いろんな言葉と出会うことができる。

「読書とは編集することである」

なかなかうまいなぁ。なんて、失礼か。さすがです。

 

読書の中でもキーブックを作るというのもいいと思った。

私の中ではキーブックというものはないけれども、最近は著者を一つのキーにしてみたりすることはある。

自分が選んだ本のマッピングをしてみるのも面白いかもしれない。2021年に一度だけやろうと思ったのに1月でやめてしまった。マップが広がりすぎて、書いていたノートに収まりきらなくなったから、全体像がわからなくなって、やめてしまった。

 

松岡さんの本、もっと勉強したくなる。

もっと、読みたくなる。

まったく編集できていないけど、とりあえず、自分の中にインプットしてみよう。

 

 

 

「本を味方につける本」~自分が変わる読書術~ by 永江朗

読書術とはあるが、「本」をもっと身近なものにしよう、という感じ。

本を分解(物理的に、裁断!)してみよう、と言っている本は初めて読んだ。

新しく出会った言葉。

「スピン」、「花布」。

 

図書館のジュニアコーナー、特設棚にあった本。

河出書房新社の14歳の世渡り術シリーズの一冊。

一応、「中学生以上、大人まで」が対象の本。

ジュニア向けの本は読みやすいし、好きだ。

読んでみた。

 

「抽象と具体」という言葉が出てきた。

細田功さんの得意な言葉、抽象と具体。

確かに、小説であれば具体的な何かが描写されている。

あるいは、エッセイのようなものでも、具体的な言葉が書かれている。

いくつもの本を読んでいると、同じ言葉にであい、使われ方の違いを知り、頭の中で一つの言葉についての活用法が増えるというのは、その言葉の抽象的な理解が進むという事なのかもしれない。

だから、読書はたのしい。

言葉を抽象的にとらえられるということは、そこから別の具体を想像できるということだから。

 

本の中出てくる本、例えば「罪と罰」といったような古典は、色々な本にでてくる。小説の中で主人公が読むこともあれば、随筆に出てくることもあるし、そこでは具体的な本なのだけれど、いくつかの本のなかで出会うと、それぞれで引用されていた場面を思い起こして、共通性をさがしたり、抽象的に理解しようとする。

それも、本との出会いの楽しさ。

 

そして、あの人もこの人も、同じこの本を読んでいたんだ、と思ったときに、本を通じて、人と人がつながる感じ。自分も読んでいれば、時空を超えてつながれる感じ。インターネットなんてない時代から本を通じて人は人とつながることができていたんだよね、そういえば。

 

「君が本を見つけるのじゃなくて、本が君を見つけてくれる」、作家の角田光代さんの言葉だそうだが、ちょっと、わかるような気がする。本の中で本と出会って、見つけたんだけど、出てきてくれた、って感じ。

本を物理的に分解してみよう、という章は、私の知らない言葉も出てきた。

「スピン」。単行本に仕込まれている紐。しおり。

スピンっていうんだ。知らなかった。

 

「花布」はなぎれ。上製本の上のところ。本の背と本文ページの間にある。糸でかがって、本を作っていた昔の名残らしい。本によっていろんな花布の色があるらしい。気にしたこともなかった。

花布なんて、なんてきれいな言葉。まさに本にそっと咲いている花なのだと発見。

 

ハードカバーの本には、背が丸くなっているものと、平たいものがあって、丸い背のものは丸背。そして、丸背の背の反対側(小口という)も丸くなっている。

気にしたことなかった!

ハードカバーの本を買う事も減ったけれど、それも気にして本棚を眺めると、結構新しい作品集にみえてくるから、得した気分。

 

家の中のハードカバーを見てみると、カバーを外した厚紙の表紙の部分と花布が同じ色だったり、微妙なグラデーションだったり、まぁ、こんな芸術が隠れていたとは。

ほんと、得した気分。

 

著者自身が14歳だったころを振り返っている文章のなかで、津野海太郎さんの言葉がでてきた。読書とは関係ないけれど、ストレートでいいと思った。

「自分の意思や努力でどうにもならないことをからかったり、非難するのはとても下品なこと」

前に、米原万里さんがプラハソビエト学校から日本に帰国して日本の学校に行ったときに、同級生が”デブ”とか、”チビとか、、、容姿で人のことを呼ぶことに衝撃を受けて、こんな野蛮な人と一緒に勉強しなくてはいけないのかと思ったら絶望的な気分になった、というようなことを書いていた。まさに、下品なことを言ってる同級生に戸惑ったわけだ。

私も、そういう表現はいやだな、っておもっていたけど、”下品”と言い捨てる感じがいい。

下品な人にはならないように気を付けよう。

 

本からは、思いがけないことを学ぶことが多い。

だから、読書はやめられない。

 

今回も、たくさんの本がでてきた。

読みたい本がますます増える。

人生であと何冊読めるかな。

たまたま、同時に借りた松岡正剛さんの本が、この本の中でもお勧めにでてきた。

人と人がつながった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「羊の宇宙」 by 夢枕獏

2005年の新装版。

たむらしげるさんの絵。

挿絵ではなく、絵本。

 

あぁぁぁぁ、こういう世界が好きだ。

私も、物理学者になりたかった。

宇宙物理をやりたかった。

でも、いつの間にかバイオテクノロジーに進んでいた。

 

私も、絵描きになりたかった。

絵本を作りたくなった。

いつか、大人になったら、、、、、って思っているうちに、

絵は趣味になっていた。

まだ、人生150年時代、どうなるかわからないけど。

80歳くらいで、絵本作家デビューをめざそうかな。

 

カザフの少年と白髪の老物理学者、アルベルト。

100歳を超えたアルベルトは、死んだことになって、第二の人生を楽しんでいる。

そして、カザフで少年に出合う。

 

アルベルトが考えるシンプルで美しいもの。

・E=MC**2

・色即是空

どちらも、宇宙の根本原理に対して、同じ答えにいきついている。

なぜなら、真理はひとつだから。

この宇宙において、物質とエネルギーとはおなじものであるから。

 

少年の言葉。

速いっていうことは、意味がないの。

速く街まで行けるようになっても、意味がないの。

速くなった分、余った時間に、働いてしまうんだよ。

速くなるということは、時間が余ることじゃなくて、もっといそがしくなるということなんだ。

 

私の感想。よく知っているじゃないか、少年。

私が速くすることを辞めたのは、50歳を過ぎてからだというのに。

生き急ぐのをやめた。

 

少年の言葉。

この宇宙はね、羊と、羊じゃないものでできてるの。

 

私の感想。よく知っているじゃないか、少年。

 

そう、この宇宙は、私と、私じゃないものでできている。

私じゃないものは、私のことには頓着しない。

だから、私のことは私が考える。

自分の人生は、自分で考えて、自分で決める。

 

思いがけず、図書館で出会った素敵な絵本。

まさか、般若心経がでてくるとは。

 

「色即是空 空即是色」

音が結構好きだ。

およそ形あるものには実体がなく、本来実体がないものこそすべての事物の姿である。

 

少年の言葉。

物質っていうのが時間を入れる器で、時間っていうのが物質を入れる器なんだよ。

物質はね、空間と時間と癖でできているの。

つまみ上げた石が、手を離すのは、石が落ちたがっているから。

上に行きたいって気持ちより、落ちたいっていう気持ちが強いから。

 

私の感想。よく知っているじゃないか少年。

そう、気持ちの強いほうに、物質は流れるんだよね。

人生は、自分の気持ちの強いほうに流れる。

やりたいとか、なりたいとか、口だけで実現しないのは、

その気持ちよりさぼりたい気持ちが強いからなんだよ。

忙しい、って言い訳するのは、

必要ないのに速くして、時間を余らせる代わりに余計に働いちゃっているからなんだよ。

 

生産性向上、30年間言い続けてきた言葉を、手放してみる。

そして、選んだ今の生活が自分に合っている。

本を読める幸せ。

速くすることを辞めたら、時間ができた。

本がたくさん読めるようになった。

 

忙しいが口癖になっている自分に気が付いたら、速く、を辞めてみよう。

早く、はいいね。

早く寝よう。

 

「羊の宇宙」、タイトルもいいな。

よく寝れそうだ。

 

 

 

 

 

 

もうひとつの ”かなしい” 愛しい

先日、人生の大先輩に、「悲しい と 哀しい の違い」について、教えてもらったとき、もう一つの「かなしい」、も教えてもらった。

 

愛しい:かなしい:身にしみていとしい。かわいくてたまわらない。かなしい。

 

「愛しい(かなしい)」自分では使わないな、とおもったのと、使っているのもあまり見ることがないので聞き流していた。

 

そしたら、出合った。

なんとも、愛にあふれた「かなしい」だけど、その文字に出合ったのは、痛快、女の人生小説。

「すぐ死ぬんだから」 by 内館牧子  2018年8月21日 第一刷発行。

以下、ネタばれ、あります。

 

痛快。

小説の出だしは、コメディかと思うほど、あるある!!の高齢女性の心情表現、行動描写。読者を引き込むのがうまいな、とおもいながら読み進む。

主人公は、”お前は俺の自慢だよ”といつも夫にいってもらえる幸せな78歳の主婦。

たくましい、高齢女性の話かと思えば、、、夫の突然死。

なんと、まさかの遺言書発見。

なんと、まさかまさかの、隠し子発覚!

なにぃぃぃぃ!!

の展開。

 

嫁姑のけんかやら、実家の母親にずけずけ物言う娘のたくましさ、いかにも日常のありがちな風景の中に突然訪れた夫の急死。

 

旦那をなくした悲しみからセルフネグレクトに陥るかと思いきや、妾の存在をしったとたんに、生きることに目覚める、、とでもいうのか、自分を何十年も裏切り続けた夫の死を悲しんでいる場合ではない!となるから、女はたくましい・・・。

 

「人は他人の人生に無頓着なものだ」。

であれば、自分の好きなことをして生きればいい。

 

妾の息子、つまりは夫の隠し子にむかって、人類愛のような心持になりつつある主人公が発した言葉。

「後悔しないように生きるといっても、何をしてもいいということではない」

 

それはそうだ。

 

愛しい。

 

その言葉を発したのは、妾の息子。なぜか、自分がこれから母のものとを去って海外移住しようという相談を、自分の母が不倫という形で裏切り続けた女、つまり認知してもらっていない父親の本妻に相談する。そして、自分の母親に対する思いを、本妻へ語る場面。

 

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「僕、母が愛しいんです」

「なぜ悲しいの?いい仕事と息子をもって、悲しい人生じゃないじゃない?」

「いえ、その悲しいではなくて、愛情の愛という字です」

「愛?愛という字、かなしいって読むの?」

「はい」

「悲しい」でも「哀しい」でもなく、「愛しい」か、、、、。母一人子一人でお互いだけを見て生きてきた濃さがわかる。

私はすんでのところで、「お母様もあなたを愛しいとおもっているでしょう」という言葉を飲み込んだ。いったら、息子はさらに動けなくなる。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

そして、なぜか、夫の隠し子の人生相談にのって、背中を押すこととなる・・・。

 

さらに、主人公の次なる人生が始まることで小説は終わるのだが、高齢者の引き際とか、次世代との関係の在り方とか、なかなか面白く、最後は明るい気持ちにさせてくれる小説だった。

 

愛しい、とも思えるものも、悲しいも哀しいも、ぜんぶひっくるめて、ココロが動くということが人生の面白みでもある。

 

ココロが動かされた時、自分はどう行動するのか。

「人は、他人の人生には無頓着なもの」

そう。人の目を気にする暇があったら、自分のことを自分の目でちゃんと見よう。

外見も中身も。

 

ただの気分転換と思って手に取った本が、思わず、私の背中をポンと押してくれた。

そうね、後悔しないように、でも、品格をもって前に進もう。