白ワインの香り 「りんご」 と 「レモン」

ワインを勉強中である。

 

ワインを表現する言葉の使い方には、それぞれ国の背景がある。ということを、最近強く思った。

人は、経験したことがあることしか(あるいは本や映画の疑似体験から)、第三者の言葉から、何か想像することはできない。

 

日本ソムリエ協会が発行する教本に書かれているワインを表現する言葉は、基本的にはフランスのソムリエさん達が使っている言葉を、日本語に直したものが多いのだと思う。

日本人には、そういわれてもなんだかわからない?ものは結構ある。

「カシスの芽」(チオール系の香り)とか、、、、。

実際に体感したことのない香りで、香りを表現するのは、妄想力をはたらかせるしかない。

 

白ワインの香りを表現する言葉で、柑橘類という言葉がある。

日本人にとって柑橘類と言うと、一番身近なのは、みかんかもしれないけれど、レモンと言われても誰もが想像することができるだろう。

言われれば 、頭の中であの酸っぱいレモンを想像して、梅干しと同じように口の中が酸っぱくなる感じ言葉から、脳がイメージを作り出し、レモンの画像が酸っぱいということを想起させ、体に唾液を分泌させるというところまでつながる。

これはレモンを食べたことがあるから起きる体の反応である。いわゆる、反射。

 

冷涼な産地の白ワインの香りに、柑橘類はよく使われる。

そして、それより少し暖かところの表現に、リンゴ、がある。

日本人にとっては、レモンとリンゴを比べると、リンゴのほうが甘いので、より暖かいところを想像させる。

日本ソムリエ協会の表現でいうと、レモンよりリンゴのほうがちょっと暖かい感じ。

 

一方で、WSET(Wine & Sprit Education Trust)の指標でいうと、りんご(apple)は、緑色系果実に分類され、柑橘類よりも涼しい香りを表現する。WSETがロンドン拠点の組織なので、リンゴといえば青くて酸が強いということなのだろう。

 

おなじリンゴ、でも、日本人に想起されるものと、イギリス人に想起されるものが違うのである。

それは、食べたことのあるリンゴの印象なので、どうしようもない。

 

食べ物だけでなく、言葉で何かを表現したときに、相手が自分と同じことを頭で思い描いていると思うのは、とてもリスクが高いことなのである。

 

多様な人と話すときは、他人は自分とは違う考え方をする、という前提に立って、話をしたほうがいい。だから、言葉の定義は大切。

バズワードの言葉に頼るのではなく、きちんと中身を表現する言葉を使いたいと思う。

Z世代とか、なにそれ?って思う。バズワードじゃないけど、、、。

 

ヤマザキマリさんが著書「とらわれない生き方」の中で、「一つの言葉によって救われ、言葉に表すことで悩みが半分いなることもある」と、言っている。

自分のなかで言葉にして、自分の頭の整理をするのはとても大切。

だから、私は、このブログを始めた。

ちょっとくらいは、誰か読んでくれる人のことを考えているかもしれないけど、ほとんど、自分のために、言葉としてアウトプットしている。

頭の整理と、記憶の定着のため。

正しく日本語をつかう、練習として。

 

WSETでいう「apple」は、[lemon]より、冷涼。今日はそれを記憶にとどめよう。

 

言葉は、定義が大切、という事を思ったので、かきとめてみた。

「笹まくら」 by 丸谷才一

「笹まくら」 丸谷才一 昭和50年8月15日初版発行 河出書房新社

 

米原万里さんが 打ちのめされるようなすごい小説と言っていた、丸谷才一さんの「笹まくら」を読んだ。

戦中、戦後の昭和の話である。

感想を一言でいえば、私も打ちのめされた。 面白かった。

 

タイトルは、主人公が勤め先のフランス語教授が読んでいる本で目にした一首

「これもまたかりそめ臥しのささ枕一夜の夢の契りばかりに」

から。

”「笹枕というのは?」、「僕もよくわからないけど、草枕とおんなしでしょう。旅寝。寝るといっても、ここでは、旅先でのかりそめの恋。」”

笹なんかをまくらにしたら、寝心地はわるかろう。それは、主人公に不安な旅を連想させた。つまり、彼の20年も前の過去を、今、目の前の教授が思い起こさせた場面。

主人公の、過去と現在を行き来しつつ、話は進む。

最後まで、どんどんページをめくりたくなる本だった。

 

もう一つ、米原さんおすすめの「女さかり」もいつか読んでみよう。

 

気になった言葉や表現。

 

「残軀」ざんく。

残りの躯(み)。余命。余生。

小説の中でたびたびでてきた。

 

「僥倖の連続」

戦争を生き延びた昭和世代の言葉になると、まさに、僥倖、だったのだろう。

 

「鶏口となるも牛後となるなかれ」

今の時代にも、通じるかもしれない。

今の時代の一番小さな集団は、個人かもしれない、と思う。集団じゃないけど。

 

小説の中にでてきた表現。

「国家というものは、目的が戦争以外にない」

「それぐらい維持することが難しいということ」

「維持するには、外的な緊張という手段しかない」

地球的視野に立てば、今もどこかの国が、そんなイデオロギーで動いている。

宇宙人が攻めてきたら、地球人は一つになれるかもしれない・・・・。

 

面白い小説だった。

読んでよかった。

昭和50年の印刷で、活字は細いし、紙は茶色く変色しているし、それでも読み進まずにはいられない、そんなお話だった。

 

以下、ネタばれあり。

 

主人公は、浜田庄吉 45歳。彼が、徴兵忌避をして「杉浦健二」として生きていた時代と時間が交錯しながら話は進む。

特にどちらの時代の話かその都度出てくるわけではないのだが、杉浦が主人公になったり、浜田が主人公になったりすることで、今どちらの話をしているのかがわかる。とても自然に頭の中で、浜田の記憶のなかの話にジャンプすることができる。

 

小説の主題は何か?、と聞かれたなら、私なりの解釈なら、「生きる自由」とでもいうところだろうか。徴兵忌避という20年も前の過去の自分の経歴を常に背負って生きている主人公。二十歳の若者が、自由になるために選んだ道は、彼を自由にはしてくれなかった。しかしその20年後、彼自身を自由にしてくれたのはほかならない妻の罪だった。しかも、万引きという。しかも、警察に迎えに行った帰りの車のなか、妻は気が付けば助手席で泣き顔のまま寝ていた・・・。

長編小説の、ほんとに最後の最後。え?!?!そんなことがあるの?!?!という感じ。

 

でも、浜田の気持ちがわかる気がする。人は、人と比べて、何かに安心したり、不安になったりする。結局、比べることで自分の存在を確かめる、そんな性は、否定できない。そして、自由になる。

果たして、それは幸せな自由なのかはわからないけれど。

 

なにかにおびえて暮らすより、自由になったほうがよかろう。

 

おびえる原因を作ったのも自分ということ。

 

人は、自分を自由にするには、自分を許す以外に道はないのかもしれない、と思う。

鳥瞰力 と 俯瞰力

とある会合への事前課題提出のなかで、

「問題に気付く鳥瞰力を育むことに、『日本のこころ』は、どう寄与するのか?考えてみたい。」

と、コメントして提出したところ、

「俯瞰力ではく、鳥瞰力ですね?」と、念を押された。

 

鳥瞰 と 俯瞰 の違いは?

あまり深く考えずに使った言葉だった。

 

広辞苑で引くと

鳥瞰:鳥が見下ろすように、高いところから広範囲に見下ろすこと。転じて全体を大きく眺め渡すこと。

俯瞰:高いところから見下ろすこと。全体を上から見ること。鳥瞰。

 

なんだ、俯瞰も鳥瞰もいっしょじゃないか。

でも、私にとっては、なんとなくニュアンスがちがった。

 

私が「鳥瞰」という言葉を使ったのは、松岡正剛さんの著書『多読術』の中で、読書をするのには鳥瞰力と微視力が必要だとおっしゃっていたことが頭にあったので、鳥瞰力という言葉をつかった。

 

たまたま、私の頭に残っていた言葉が「鳥瞰力」だった、という事かもしれないけれど、やはり、ここでの鳥瞰力は、俯瞰力とは違う気がする。

 

個人的に二つの言葉の違いをと問われると

俯瞰力というのは、当然、全体を見て考えるということなのだが、既にそこに解決したい問題などがあって、その上で全体を捉えようとする時に、「では全体を見てみよう!」というような、なんとなく答えありきで全体を見るような感じがする。問題があって、その構図がすでに決まっていて、そのうえで、全体から見ておかしくないかを考える、、、というような。

一方で、鳥瞰力と言うと、つべこべ言わず、とにかく上から見てみる!とか、空から見てみろ!とか、そういうことのような気がして、何かを思考するときに、真っ白なキャンパスの中に事実を散りばめることができるような感じがした。

なので、「問題に気づく鳥瞰力」という使い方をした。

 

言語学者からは、怒られてしまうような解釈かもしれないけれど、一般市民としての私の解釈である。個人的な、極めて個人的な解釈だけれども、似たような言葉があったときに、どう使うかは、その人の経験に基づく思考の結果なので、ルールとかにとらわれなくても、いいことにしよう。

 

冒頭のとある会合は、「日本のこころの源流をさぐる」という事をテーマに、各人が好きなことを言う。答えを求めにいくのではく、思考することを楽しみ参加している。

 

今回のように、俯瞰力と鳥瞰力のちがいなんて、言われなければ考えなかった。

思考のきっかけの多くは、人との対話にある。

「俯瞰と鳥瞰の違いは何か」というテーマでも、いくらでも語れそうな気がする。

思考することは、楽しい。

人間は、社会的動物だから、思考なしには満足できない。

対話をもっと、楽しみたい。

 

 

「テクノロジーは貧困を救わない」を思いだした。結局、人。

「テクノロジーは貧困を救わない」 外山健太郎 (著) を、ふと思い出した。

読んだのは、多分、平成の終わりころ。5年くらい前か?

ただ、その言葉を思い出した。

読んだのは、私がまだテクノロジーの追及に燃えていた頃だった。

でも、なにか、つかめそうでつかめない未来を、現実を、見せつけられた気がしたので、すごく印象に残っている。

 

私は、昭和の終わり、20代の時に、バイオテクノロジーで世界を幸せにする!と思って、技術の道に進み、30代で農学博士になった。でも、世界を幸せにするには、まだまだ道は遠い。というか、テクノロジーだけでは、社会に貢献できないし、一人では何もできないという事を身をもって知ることとなる。

 

いかなる技術も、人のため、平和目的以外に使用してはならない。

 

私は、一人の技術者として固くそう信じている。

 

でも、技術が人を苦しめることもある。

直接的に。間接的に。

 

わかりやすいのは、福島第一原発の事故だろう。

だれも、制御不能になるとは思っていなかった。

誰が故意に制御不能にするものか。

毎日、人々の暮らしに欠かせない電力を供給してくれる技術だったのに、一瞬にして人の命を、暮らしを奪う凶器と化した。

そして10年たった今もなお、人々を苦しめる。

 

もっと、わかりやすいのは、原爆か。

アインシュタインは、ルーズベルトは、トールマンは、どう思っていたのだろうか。

 

原子力は、使い方、制御方法を間違えれば、直接的に人からすべてを失う凶器になる可能性があることは、もう誰も否定はしないだろう。

でも、今なお、多くの人の暮らしを支えているのも事実である。

 

間接的に人を不幸にするテクノロジー

テクノロジーの盗用。

意図的な第三者による盗み。

意図的な内部者による漏洩。

あるいは、いったん第三者となった者が自己承認欲求に駆られて第三者にやすやすと提供する。

 

苦しめているのは科学的な事実やテクノロジーそのものではなく、人々による様々な行動なのではないか?

人が人を不幸にするほど、不幸なことはない。

加害者になっても。被害者になっても。

 

国際特許のある現代なら、訴訟はできるかもしれないけど、裁判は新しい価値を生み出す場としてはふさわしくない。消耗しかない。

しかも、同じようなことは繰り返される。

技術の盗用における犯人捜しほど、何も生み出さないものはない。

盗まれるほどの技術なら、堂々と表舞台で売ればいい。

まぁ、そんなに簡単は話ではないのだが。

種苗問題も、誰を守って誰を苦しめることになるのか、諸刃の剣。

ワインの葡萄づくりだって、醸造技術だって、ノウハウは国境を越えて、どんどん流出した。はたしてそれは誰を幸せにしたのか?

 

サラリーマンも長くやってきたけれど、結局のところ、

テクノロジーは、結局、人次第なのである。

 

いや、テクノロジーだけでない。

結局、人を幸せにするのも、不幸にするのも人なのである。

震災の被害は、本当にいたたまれないし、理不尽極まりないけれど、人がもたらす理不尽さに比べれは、、、、。

人は自然にはかなわない。

そう思える。

でも、人がもたらす理不尽さ、人がもたらす不幸に、人は憤りをかんじるのではないだろうか。

自然に憤っても、太陽に怒っても、風に怒っても、、、穏やかな天気に戻れば、自然への恨み事は消えるだろう。でも、人災だったら?いつまでも、しこりが残る。

 

長く、モノづくりを仕事としてきたけれど、結局、モノ作りは、人づくりなのである。

本当に、そうなのだ。

 

学校を好きになるのも、先生次第。

会社を好きになるのも、上司次第。

職場環境とはすなわち上司環境といってよいと思う。

 

人なんです。

やっぱり、人なんです。

テクノロジーも大事だけど、それを正しく使える人が必要なんです。

 

正しく使えているかどうかは、自分で考える。

自分で判断する力を養うために、たくさん読んで、見て、聞いて、話して、語って、対話して、悩んで、考える。

 

もう一度、私は何をしたいのか考える。

 

「テクノロジーは貧困を救わない」

そう、導入することが目的になってしまったテクノロジーは、そこに根付かない。

 

やっぱり、人。

 

人を大切にしよう。

 

人を大切にするって、どういうこと?

自分で考える。

 

自分の人生は、自分で考えて、自分で決める。

 

そう、それが一番の、人生の楽しみ方なのだ。

 

 

 

 

靡く 騒く 揺く 輝く 囁く: 擬態語

靡く 騒く 揺く 輝く 囁く

なびく さわく ゆらく かがやく ささやく

 

「GOZOノート1 コジキの思想」 吉増剛造 慶應義塾大学出版会 2016年6月15日

の中の、「一語の魅力」という項ででてきた。

 

この「なびく」はオノマトペを語幹とする動詞の一例として挙げられていて、「ナビ」は長いものの元が抑えられていて、先のゆらゆらとする意味を持っているのだと言う。

 

オノマトペというと、「ピカピカ」とか、「ワクワク」とか、擬音語のことだと思っていたら、擬態語もオノマトペというのね。

 

広辞苑をひくと、

オノマトペ=擬音語、とあるが、

擬音語へ飛んで調べると、広義には擬態語も含む。

と、書いてあった。

 

靡く。なびく。ナビく。

ナビナビ、なびく。

なんとなく、今の季節なら川の土手の雑草や菜の花が風に揺られてゆらゆらとなびいている感じ。

秋なら、ススキの穂がなびいている感じ。

長いものの元が抑えられていて、先のゆゆらゆらする、というのは、まさに、擬態している。

やわらかで、美しい景色が目に浮かぶ。

 

騒く 揺く 輝く 囁く、これらも擬態語と言われても、ピンと来るような、こないような。

 

囁く、ささやく。ササヤく。

は、なんとなく、そーーっと、話す感じを擬態しているような気はする。

風のささやき。風がささやく。

日本酒のささやき。日本酒がささやく。

発酵中って、微生物の働きで二酸化炭素が発生するので、ぷくぷくとはいわないけど、しゅーーというか、お酒って、ささやく。

やさしげで、和風なかんじ。

 

擬態語、自然の情景を思い描くと、何とも平和なやさしい気持ちになるのだが、これが、人の行動を表す言葉として使うと、なんだか怪しげな雲行きになる感じ。

 

なびく。

”あの人は、田中さんに靡いている。”

って、あんまり、いい感じがしない。

”彼女は、彼に靡いている。”

なら、ちょっと、いいかも?でも、なんかちょっと違う。

普通に、

”彼女は、彼に惚れている。”というのとは、何か違う。

あれ、ほれる、も擬態語かなぁ???

ほぉぉぉっとしている感じ。

 

ささやく。

”彼は、隣の部下にそっとささやいた” ⇒ 行き詰まった会議中なら、ちょっと、やなかんじ。こそこそしやがって!

”彼は、彼女にそっとささやいた” ⇒ デート中なら、ちょっといい感じ。

 

擬態語って、あまり気にしたことがなかったけれど、たしかに使う時と場合で、同じアクションだとしても、その行動に背景にある目的のような意味が変わるってこと?

 

いわゆる動詞、eat「食べる」、sleep「寝る」みたいなものとは、発生の語幹が違うということなのだろう。

日本語って、おもしろい。

 

英語の勉強をしていると、自動詞と他動詞で、目的語の使われ方が明確に異なるので、自動詞と他動詞を意識することはあったけど、日本語では自動詞も他動詞もあまり気にしないし、語幹も気にしたことがなかった。そりゃ、母語だからね。

 

なんせ、日本語は、主語がなくても、目的語がなくても、文になる。

ハイコンテクスト。

その分、言葉の受け取り方による誤解も多いかもしれないけど。

だからこそ、対話を大切にしないとね。

 

英語と日本語は、意味を同じつもりで使っても、なんとなく語感が違う事がある。

 

日本語で幸せ、っていうと、ぎゅっと腕で自分を抱きしめる感じ。

英語でHappy、っていうと、パーっと腕を伸ばして自分を解放する感じ。

 

私の勝手な解釈だけど。

もちろん、パーっと腕を伸ばして天を仰ぐ幸せ、もあるけど。

 

言葉の持つ意味が、時と場合で、あいまいであることも、悪くない。

そこから、相手の意図することを読み取ろうとするためにするのが対話。

Dialogue

 

一方的に語るだけでなく、対話ができてたらいいね。

そのためには、自分が少し黙ることだよ。

今度会うときは、少し沈黙をまってから、そっとささやこう。

 

 

バイオフィリア Biophilia 自然愛

バイオフィリア。

初めて聞いたけどちゃんと英和辞書には載っていた。

Biophilia:  生物自己保存能、生命愛 

 

バイオフィリアが満たされると幸福を感じられるということ。

 

昨日、オキシトシンについて「諸刃の剣」という言葉で表現されていた本、

「GO WILD」 by ジョン J レイティ (NHK出版 2014年12月20日)の本の中で出てきた。

 

レイティは、「脳を鍛えるには運動しかない」(NHK出版)の著者である。運動によって脳内の血流が促されることでしか、脳は鍛えられない、という趣旨の本。私が、運動することを人生の優先事項にするようになったのも、この本を読んだから。「GO WILD」も、いかに健康に生きるかという話なのだが、「バイオフィリア」という言葉は初めて聞いた気がする。

 

私達の最良の部分は自然の中にある、という話の中で使われた言葉

 

「バイオフィリア」、この言葉を最初に用いたのは、ドイツの社会学者哲学者及び社会心理学者だったエーリッヒフロム。フロムは1964年の著書「悪について」においてバイオフィリアを多用している。「バイオフィリア」は、人間が生得的に備えている他の生物への愛情であり、すなわち人間の本質の一部、という事を生物学者E・O・ウィリアムは言っている。

 

 人間であれ他のどの生物であれ、生物種としての成功は、環境への適応の度合いによって決まる。どれだけ、自分の遺伝子を残せるか。特に人間の場合、大きな脳で自然界についての知識を駆使することが、その適応を助けた。「バイオフィリア」は、運動・ランニング・タンパク質・脂肪・睡眠などと同じく、私達に満足や幸せをもたらすと考えられる 。

 

確かに、都会の日常生活が続くと、自然のあるところへ行きたくなるし、公園のベンチでボーっとすることでさえ、癒される。あるいは、ベランダで小さなプランターで家庭菜園してみたり。それは、自然への愛が満たされていることなんだ。都会にいると、自然欠乏症になるから、メンタルヘルスがやられてしまうのかも?とか思った。

 

日本では、自然欠乏障害に関する革新的な考えがいくつも生まれているらしい。 

「森林浴」という言葉は、今や日本人ならだれでも耳にしたことがあると思うが、「森林浴」に対する英語はないらしい。そして、「森林浴」に関する研究は、日本がすすんでいるとのこと。なんせ、国土の67%が森林(国土交通省サイト)。

 

自然とのふれあいが、心身の健康に恩恵をもたらし、それはコルチゾール値・心拍数・血圧といったストレスを計測する客観的指標によって効果が確認されている。

 

ただ、ジムにいって室内で運動するより、外で体を動かした方が、気持ちはすっきりするし、パワーが沸く気がする。単に、私が田舎育ちだからなのかとおもったら、人間としての動物的本能だったらしい。

 

著書の中で、「自然は気まぐれで残酷なので、ジムにいた方がいいと思われるかもしれない。しかしその気まぐれさこそが野生的な生活から得られる恩恵の一部なのだ」と記されている。(この本は、野生的な生活が、健康を取り戻す、という趣旨の本)

 

思い通りにいかないところも、自然のいいところ。雨が降ったり、風が吹いたり。それに応じて、着るものを考えてみたり、予定を変更して引き返してみたり、そんな瞬時の対応を考えることでワーキングメモリーを使う事も、心の満足につながるのもかもしれないと思った。

 

自然の前に、人間は無力である。

自然は、人間には無関心である。

だからこそ、人は自然とのつながりを求めるのかもしれない。

片思いのほうが、心がうごかされるみたいなものかな。

 

思い通りにならないからこそ、人生、充実できる。

全部、思い通りになったら、つまんないよ。

なんてね。

 

今日は、雨のにおいに自然を感じて癒されよう。

 

諸刃の剣

諸刃の剣:

一方では大変役に立つが、他方では大きな害を与える危険を伴うものの例え。

英語でも、

Double-edged sword.

 

「諸刃の剣」という言葉を目にすることが重なったので、ちょっと引っ掛かった。

 

 

目にしたのは、本の中。

「人生を変える習慣のつくり方」 by グレッチェン・ルービン

アメリカンデモクラシーの逆襲」by 渡辺靖

「GO WILD」 by ジョン・J・レイティ/リチャード・マニング

 

「人生を変える習慣のつくり方」の中では、一つの項として「習慣における『諸刃の剣』」として出てきた。 二つのことを組み合わせてやるということで、習慣にしやすくなるというのが主な話なので、「諸刃の剣」、と表現するのがよくわからないと思ったら、 組み合わせで定着できる習慣は、悪い習慣も定着しやすくなるということのようだ。

お酒を飲んだら、タバコを吸う習慣とか?!

一つをやめたら、もう一方もやめられるかもしれない。

 

アメリカンデモクラシーの逆襲」では「個人献金」が「諸刃の剣」。

「GO WILD」では、「オキシトシン」が「諸刃の剣」。

 

どちらも、個人献金をしたくなったり、オキシトシンが分泌したりするような愛情を感じる相手には寛容な行動になるが、それ以外の他者については逆に疎外行動に走ることがある、ということ。赤ちゃんを産んだ母親がオキシトシンによって赤ちゃんに愛情を注ぐ一方で、知らない人から赤ちゃんを守ろうとして攻撃的になる、といったようなことが書かれていた。

 

まぁ、同じという事はないのだけど、「諸刃の剣」って、世の中のあらゆるものが当てはまるような気がした。

 

ある人にとっては、プラスのことだけれど、同じことが他の人にとってはマイナスになる。

 

「薬も過ぎれば毒になる」とはちょっと違うかもしれないけど。

物事にはどんな物も両面性あるいは多面性がある。 

 

自分に都合の良い面だけを見ていると、偏ったことになるという事を忘れないようにしよう。

 

なんで、「諸刃の剣」なんかが、気になったのだろう???

耳障りのよさげな話ばかり聞こえてくるからか???

 

コロナ下での在宅勤務。外出しなければ感染は避けられるけれど、運動量が減ることで確実に免疫力は低下する。高齢者なら、筋力が衰える。

長期的に見て、今、何をするべきかを考えよう。

 

そうだ、コロナ対策が、どれもこれも、「諸刃の剣」と、感じていたのかもしれない。

何が正解かは、わからないけど。