『マンガ日本の歴史 4 王統譜を編み上げる大和王権』  by 石ノ森章太郎

マンガ日本の歴史 4
王統譜を編み上げる大和王権
石ノ森章太郎
中央公論社
1990年2月5日 初版印刷
1990年2月20日 初版発行

 

『マンガ日本の歴史 3 興亡する倭の五王と大嘗の祭』の続き。

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3では、五王時代の最後、倭王武(ぶ):大泊瀬幼武大王(おおはつせわかたけ・雄略天皇)まで。

4では、その後の大和王権の歴史。後継者争いがありながら、王権を繋げていく。

 

目次
序章 越前・三国 
第一章 吉備の乱
第二章 継体王朝と磐井の乱 
付章 仏教伝来 
第三章 仏教受容で揺れる王権

 

5世紀後半、幼武大王(雄略天皇が亡くなった後、いろいろな家系の大王がひきつぎつつ、武烈天皇に至る。それまでの間のすったもんだの時代。

 

倭国は、北九州を玄関として朝鮮半島と貿易をしていたけれど、もう一つの玄関口が、越前だった。越前にも渡来人はやってきていた。ときには、難破した舟のお宝が越前の浜に流れ着くことも。そうして、流れ着いたらしきものの一つが、「通天の犀」とよばれる帯など。また、仏像が流れ着くこともあった。

 

そのころ、吉備の国は、大和王権に最後まで反抗していた。しかし、雄略天皇から差し向けれた物部の軍隊によって、吉備は皆殺しにあう。吉備の乱は、一族抹殺でおしまい。

 

吉備国は、古代日本の地方国家。現在の岡山県全域と広島県東部と香川県島嶼部および兵庫県西部にまたがる有力な地域の一つであり、大和、筑紫、出雲などと並ぶ古代日本の四大王国の一角。(Wikipediaより)

 

と、そんななか、畿内からの王を継承することが難しくなり、越前の男大迹(おおど)に白羽の矢が立つ。男大迹は畿内の血をひいていたこともあって、王として畿内に来てくれるように頼まれる。王になることは承諾したものの、これまで越前にいた末裔がのこのこ中央(大和)まで出ていっても、敵は多いだろう、、、といって、畿内とは言っても淀川沿いの河内国交野に宮をたてる。

 

継体天皇となった男大迹は、徐々に宮の場所を移し、526年に大和に入る。

 

そのころ大陸では、仏教が広がる。仏教は、五世紀初めにはガンダーラ(現在のパキスタン北西部)にまでひろがり、シルクロード、中国、朝鮮半島を通じて日本にもとどく。

百済聖名王から、釈迦仏金銅像や、経典などが日本(欽明天皇)へ送られた。

 

ところが、日本では、崇仏派の蘇我氏廃仏派の物部氏がぶつかり合う。

6世紀後半、日本では天然痘が流行り、人々は苦しみの底にいた。そこに救いの仏教がきたので、みんな仏教にすがりたくなった。でも、すがっても、苦しみもなくならない、、、、崇仏派と廃仏派の争いは深まり、とうとう、蘇我馬子は、物部氏が支持していた穴穂部皇子を殺してしまう。それを賢い頭で支援したのが、厩戸皇子だった。

厩戸皇子は、用明天皇欽明天皇の子、継体天皇の孫)の子で、推古天皇欽明天皇の子)の甥にあたる。

 

推古天皇(39歳で即位)と蘇我馬子は、なんだかんだと政権を牛耳っていく。そして、それを厩戸皇子(18歳)に手伝わせた。かしこかったのだ、厩戸皇子。って、本書の中では「聖徳太子」とはでてこない、、、一応、私が学校で習った時代は、厩戸皇子聖徳太子

 

本書のなかでは、日本にやってきた仏像として菩薩半跏像の姿も描かれている。そうなのだ、そんなに昔なんだよね。

 

蘇我馬子は、仏教の拠点として法興寺を飛鳥に建てることとし、592年に完成。

マンガのストーリーの最後は、
” しかし 仏教の真の担い手は蘇我氏ではなかった。仏教を大いなる力として、王権を継体ー欽明の直系で築き上げたのは、大王権自身であった。そして大王権は遡っていくつもの大王の系譜を一系の王統譜に編み上げていった。”
と。

 

なるほど。万世一系は、このころにつくられたのか、、、。
しかし、徒然草兼好法師が吉田とは無関係だったように、昔の記録の系譜というのは、どこまで信用していいものやら、、、それが歴史のわからないところだし、人によてはロマンなんだろう。

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この時代の情報は、『日本書紀』と中国・朝鮮の史料。

 

4は、私はほとんど知らないことばかりだった。他には、磐井の乱なんていうのもでてきたけど、筑紫国のあたりの海賊って感じ。
せいぜい、最後の蘇我氏物部氏、そして推古天皇厩戸皇子くらいしか、知っている人は出てこなかった。。。飛鳥時代って、仏教伝来の重要な時期な気がするけれど、学校ではわりとさらり、、、と流されていた気がする。

 

おまけの時代概要
仏教伝来の意味 (義江彰夫
この時代、中国や朝鮮からの渡来人、帰化人は、仏教を倭人社会に積極的に持ち込むようになっていた。当時の大王権にとって、仏教の意味は計り知れないほど大きい。しかし、 呪術的信仰しか持っていなかった当時の倭人は、仏像を「大唐の神」と受け止めるばかりで、その豊かな精神世界を理解するまでには至らなかった

 

人物埴輪にみる衣服 (高田倭男
古墳からは、様々な服装の女子、男子の埴輪がみつかる。巫女、上層階級の人、武人、鷹匠、農夫、庶民、、、、。聖徳太子でもおなじみの男子の髪型、美豆良(みずら)の埴輪も。帽子も様々。

 

・古墳から寺院へ (藤井恵介)
 蘇我馬子は、物部守屋を滅ぼすとすぐに、飛鳥寺を発願した。仏教建築は日本国内にあったけれど、正式の寺院としては飛鳥寺が最初。寺院建築の様式は、他の建築にも影響した。

 

まだまだ、飛鳥が始まったところ。先は長い。。。