「古寺巡礼」を読んでいて、コロナ自粛でしばらく国内の旅もできていないことに、悶々としていた。
特に、仏像オタクなわけではないけれど、美術館や博物館も思うように行けず、うっぷんがたまっている。
そんな環境の中で、「古寺巡礼」を読んだので、無性に奈良に行きたくなった。
奈良は、私は住んだことがないのだが、生まれたころの本籍は奈良だったらしい。
父方のお墓は、吉野の山にある。
そのため、住んでもいないけど、吉野に行くとちょっとほっとするような、不思議な感覚がある。
地縁なのか?
吉野の神様なのか?
で、そんなことを思いつつ、dマガジンで、雑誌をちらちら見ていたら、
家庭画報2021年7月号に、「特別取材 天平の十一面観音を訪ねて 奈良・聖林寺の国宝と出会う」という記事が目に入ってきた。
普段、家庭画報なんて見向きもしないのに、なぜかクリックしていた。
十一面観音に呼ばれた気がする。
そして、なんと、なぜ、その特集だったかというと、現在、聖林寺の観音堂は改修工事中で、その間、東京と奈良で特別展が開催される!というのだ!!!
2021年6月22日~9月12日
だそうだ!
うれしい。
奈良に行ければ一番いいけど、とりあえず、観音様が旅に出ているならそこに会いに行くべし!
と、いうことで、勝手に一人で興奮している。
「古寺巡礼」の中での、和辻さんの表現
「聖林寺の十一面観音は偉大な作だと思う。肩のあたりは少し気になるが、全体の印象を傷つけるほどではない。これを三月堂のような建築の中に安置して周囲の美しさに釣り合わせたならば、あの生き生きとした豊麗さはいっそう輝いて見えるであろう。」
「かくのごとき菩薩はいかなる形貌を供えていなくてはならないか。まず第一にそれは人間離れのした、個人的な威厳を持っていなくてはならぬ。と同時に、最も人間らしい優しさや美しさを持っていなくてはならぬ。それは根本において人ではない。しかし人体をかりて現れることによって、人体を神的な正常と人に高めるのである。」
「このような偉大な芸術の作家が日本人であったかどうかは記録されてはいない。」
「顔面の表情が、大陸らしいボーっとしたところを失って、こまやかに、幾分鋭くなっているごときは、、、」
「その感じを細部にわたって説明することは容易ではないが、とにかく唐の遺物に感ずる少しばかりの他人らしさは、この像の前では全然感じないのである。」
十一面観音菩薩像は、760年に東大寺の造仏所で作られたと伝えられている。天平の時代。
もともとは、山のご神体とされていた観音様は、秘仏として祀られていて、見る対象ではなく祈りの対象であったらしい。
今は、見ることができる。
会うことができる。
和辻さんは、誰の作なのかはわからないけれど、唐からのものではなく、日本人がつくったのではないか、と思っていたように思う。
私には、唐の作品と日本の作品との違いは分からないが、その人間離れした威厳に、会いに行ってみたいと思う。
どうも、同じものに続けて出合うと、気になって仕方がない。
勝手に、運命と思っている。
後付けされた運命。
内田樹さんのいうところの「自作する宿命」。
人は、何かと理由をつけたがるものらしい。
いいから、あれこれ言わず、気になるなら行ってみよう。
養老孟司さんのいう、アウトプット。
行動する。
考えているだけでは何も起こらない。
行動してみよう。
十一面観音は、そのきっかけをくれたに過ぎない。
会いに行って、それから、感じてみよう。
Don't Think. Feel!