今日の坐禅会の後の言葉。
「四料揀」 (しりょうけん)
臨済禅師の語録。
私は、決して臨済宗の人ではない。
禅を達観した人でもない。
ただの、一般人であり、煩悩の塊であり、神も仏も信じていないような、信じているような。。。
坐禅を続けていると、そのうち何か見えてくるものがあるのかもしれないという煩悩に駆られて、時々坐禅をしている。
坐禅をしているというより、黙って考え事になってしまったり、半分寝てしまったり、、、。
そんな、ただの一般人として、「四料揀」をどう感じたかを覚書。
「四料揀」とは、臨済禅師の語録から。
悟りの4段階を表した言葉。
1 奪人不奪境(だつにんふだっきょう)
2 奪境不奪人(だっきょうふだつにん)
3 人境倶奪(にんきょうぐだつ)
4 人境倶不奪(にんきょうぐふだつ)
これだけ聞いても、わかりませんな。
1 奪人不奪境(だつにんふだっきょう)
人(自己)を無にする、境(外境)があるだけ <客観世界のみ>
畳の上で死に切る
自分を無にするということ。
世界はあるけど、そこに自分はいない。
世界を認識する力をつけるということだろうか。
生まれたばかりの赤ちゃんにはない力。
自分を考える前に、世界を考える。
2 奪境不奪人(だっきょうふだつにん)
客観世界を外に見ない、自己が世界の全て となる <主体のみ>
独坐大雄峰
坐禅中は、半眼といって目は完全に閉じているわけではない。
だから、周りの景色は目に入ってくる。
その景色とセットで自分がいる感じ??
それは、自分の天下。
自分を認めていい。
自分がいて、そこに世界がある。
3 人境倶奪(にんきょうぐだつ)
客観も奪い、主観も奪う <空の世界、一切無一物:対象も主体もない>
無一物中無尽蔵
自分も、外の世界もなくなっちゃうこと。
自分がなくなるというのは、自分自身が何かに没頭している状態。
自分のためとか、誰かのためとかも忘れて、没頭している状態。
純粋に、自分のやるべきことに没頭できている状態。
4 人境倶不奪(にんきょうぐふだつ)
すべてがありのままにある <色の世界>
柳は緑花は紅
自分も、外の世界も、輝いている。
やるべきことをやっている。
社会として、バランスのとれた状態。
すべてがありのままに輝いている。
悟りの4段階、ということだが、目指すべき社会の4段階と言ってもいいかもしれない。
全てがありのままにある状態。
個人も、家族も、社会も、会社も。
自分のやるべきことがわかっている人が強いのは、
人境倶奪(にんきょうぐだつ)
に、至っているからかもしれない。
養老孟子さんは、著書「自分の壁」の中で、「自分探しなんてやめちまえ」と、おっしゃっている。
「本当の自分」を探すより、「本当の自信」を育てたほうがいい、と。
「本当の自信」は、人境倶奪に至ったときに、自然と身についているのかもしれない。
自分のやるべきことがわかっていて、それに没頭していられる状態。
自分のやるべきことは、人から言われたことではなく、自分で欲すること。
やっぱり、自分のこころの欲求に従って、やってみるのがいい気がする。
違和感を大事にする。
あれ?、と思う事は、やはり何かがバランスしていないことが多い。
違和感を大事にしつつ、前に進もう。
奪人不奪境、周りの環境の観察も忘れずに。