「手の倫理」 by 伊藤亜紗

「手の倫理」

伊藤亜紗 著

講談社選書メチエ

2020年10月9日

 

図書館で予約していたのが回ってきたのだが、なぜ、予約したのかを忘れてしまった。

でも、読み進めるうちに、あぁ、共感。。。というところが多くて、誰かに薦められたか、書評を読んだのか?わからないけれど、概要を読むと、私のアンテナに触れたのが自分で納得するような気がした。

 

以下、概要から。

「人が人にさわる/ふれるとき、そこにはどんな交流が生まれるのか。
介助、子育て、教育、性愛、看取りなど、さまざまな関わりの場面で、
コミュニケーションは単なる情報伝達の領域を超えて相互的に豊かに深まる。
ときに侵襲的、一方向的な「さわる」から、意志や衝動の確認、共鳴・信頼を生み出す沃野の通路となる「ふれる」へ。
相手を知るために伸ばされる手は、表面から内部へと浸透しつつ、相手との境界、自分の体の輪郭を曖昧にし、新たな関係を呼び覚ます。
目ではなく触覚が生み出す、人間同士の関係の創造的可能性を探る。」

 

共感とか、批判とか、信頼とか、、、人と人との関係に興味があるので、きっと、私のアンテナに触れた。

 

本書の中で、伊藤さんは、「触覚」と「視覚」による人と人との関係を、「手の人間関係」と「まなざしの人間関係」と読んでいる。

手の倫理は、主に、「触覚による手の人間関係」に関する話。

 

英語の「touch」を辞書でひくと、「触れる(ふれる)・触る(さわる)」とでてくる。

「ふれる」と「さわる」について、伊藤さんの解釈でとらえた違いを話している。

 

「ふれる」は、相互に触れられる感触を確かめながらふれあう。相互的コミュニケーション生成モード。

対して、

「さわる」は、一方的なもので、コミュニケーションでいえば、伝達モード。

 

「ふれる」は、安心を与える、親密さを示す。

「さわる」は、警戒感を与える、かもしれない。

空気にふれることはできるけれど、空気にさわることはできない。

 

そして、面白いことを言っている。

「体育とは、他の人の体に対して失礼ではないふれる技術を身に着けさせること。」

 

なるほど、と思った。

 

子猫がじゃれ合って、爪の立て方の程度を覚えるように、人間も体育の時間にそういうことを学ぶのかもしれない。

 

数年?前に、新聞の投稿で、
「私の赤ちゃんにさわらないで」というのがあって、一時話題になったことがある。

電車で、高齢の方が赤ちゃんにいきなり触ってくるのが嫌だ、という親の投稿。

高齢の方は、「ふれている」つもりでも、親にとっては「さわられている」の感覚だったという事かもしれない。

 

昨日、私が着ている洋服の襟がよれていたのに気が付いた女性(私よりは高齢と思われる)が、「触ってもいい?」といって、手を伸ばされた。私も、「あ、どこか変なのかな」とおもったから、自分で直したのだが、「さわってもいい?」と聞かれたその女性の自然な感じが、なにか感じがよかった。素敵な女性だな、と思った。

「言葉」も大切である。

電車の赤ちゃんの親も、高齢者が「さわっていい?」ときいていたら、少し違う感情を持ったかもしれない。

 

 

そして、伊藤さんは「倫理」と「道徳」の違いについても述べられている。

 

倫理は、具体的なある状態においてどうふるまうか。

道徳は、いついかなる時でも○○せよ。

 

ここから、私の解釈だが、必要なのは倫理であって、道徳ではないのではないだろうか?

 

前に、内田樹さんだったか、ヤマザキマリさんだったか、わすれてしまったのだが、
「小学校で道徳の授業をうけて、道徳的人間に育ったなんて話は聞いたことがない。実体験でしか学べない。」

というようなことをおっしゃっていた。

 

本当にそう思う。

経験が人を成長させる。

失敗も、成功も。

テストであいまいながら回答して、運よく正解だったことは頭に残らない。

間違えると、復習するから頭に残りやすい。

 

倫理と道徳の違い。

深いなぁ、と思った。

 

「いついかなる時も、○○せよ」より「どうふるまうかはその時考える」方がいい。

そして、それを考えられる、地頭を作ろう。

 

なかなか、良書。

勇気が湧いてくるような本。

なぜ借りたか忘れているけど、読んでよかった。

 

やはり、いろいろ読んでみるのは楽しい。