「最強の働き方 令和時代の生存戦略」 by 佐藤優

佐藤優 直伝!「最強の働き方 令和時代の生存戦略
佐藤優
自由国民社
2019年(令和元年)8月8日 初版第1刷発行

 

図書館の棚で目に入ったので読んでみた。


タイトルは「働き方」とあるけれども、確かにサブタイトルであるようにどちらかと言うと「生き方」の本かもしれない。


まぁ、人は働かなくては生きていくことができないし、年金がこの先どうなるのかも不透明な中、自分自身に起こり得るこれからのことを、現実逃避せずに現実的に捉える、そんな必要があるのかもしれない。

 

第1章 働きすぎてはいけない
第2章 職業の選択を間違えてはいけない
第3章 リスクは誰にでも襲いかかる
第4章 会社を辞めてはいけない
第5章 仕事だけしていたら孤独が待っている
第6章 仕事の目的は休むことだ

 

目次を見ると、私にとっては第4章のタイトルだけは「もう、やめちゃったよ!」なのだが、 内容的には、どの章も、うんうん、そうだそうだ、と、共感できるところがある。
第1章 働きすぎてはいけない では、「再生産」のための自分の体力・気力は残しておかないとね、という話。それは、第6章の仕事の目的は休むことだ。にも、つながる。

 

会社を辞めるな、とはいうものの、搾取され続けるブラック企業からは逃げろ!と言ってくれている。尊敬できる人が一人もいないような会社なら、逃げろ!と。

そうだそうだ!!

共感。


幸い、私が30年サラリーマンをしていた会社は、ブラックではなかった。でも、一緒に仕事したくない、、、と思う人がいなかったわけではない。ただ、そういう人が継続的にのさばっていられるようなブラックな文化はなかったと思う。


佐藤さんが「会社を辞めるな」と言っているのは、自分がその会社を通じて提供できるものがあって、ブラックではないなら、転職しても給料は下がる可能性のほうが多いから、少しそこで頑張ってみるのもわるくない、という事のように思う。
転職先が、元の職場より快適であるかはわからない。。。。
職場そのものはよくなっても、世の中の景気が悪くなると、社会全体に不安が広がり、その環境もまた変化する可能性がある。労働に対する価値観も変わる。
「24時間戦えますか」 っていうコマーシャル、今やったら大クレームが起きるだろう。
でも、バブル時代は、それで、イケイケドンドンだった。


つまり、結局は、どの時代においても、大きな社会の流れの中で私たちは生きているのだ。

同じ時代を生きていても、20歳の選択と、50歳の選択は違うだろう。

今、自分はどこにいるのか、どうしていくのか、自分で判断する力は、いくつになっても必要だ。70歳でも、80歳でも。

 

本書の中で、佐藤さんは、トマ・ピケティの「21世紀の資本論」を賃金の仕組みを理解していない、とバッサリ切り捨てている。
21世紀の資本論では分配のことしか話していないから、まったく資本論などではないと。
佐藤さんはピケティと直接会った時に「賃金はどういう風にして決まるんですか」と尋ねてみたらしい。すると彼は、「それは労働市場の需要と供給の関係で決まるんだ」と。これでは全然答えになっていない。労働市場の需要と供給の基準となるところがどこにあるのか?じゃあ労働不足だったら賃金は1千万円/月まで上がるのか??と。絶対あがらない。
マルクス経済を全く勉強していないからこういう発想になる。と。


労働力の価値 > 賃金


そうでなければ、余剰価値は生まれない。
そして、その余剰価値は、資本家の利益となる。


あぁ、そうか、そういうことか。と、「21世紀の資本論」を読んだ時に感じた、腹落ちのしなさ、違和感が、すっきりした気がする。

 

第6章 仕事の目的は休むことだ  で、締めくくられているところがいい。
この章は、佐藤さんらしい神学のまなざしで語られている。
余暇は、一人でいることでもないし、ただボーっとすることでもない。


以下、本書からの抜粋。
”聖書には、「神はおつくりになった業からしりぞいて休み、すべてが大変よいことを御覧になった」(創世記第1章31節) と記されていますが、私たちの余暇の中にもこのような神のまなざし、「コンテンプラチオ」に似たものが含まれています。というより、この創造の世界を心の目でながめ、それら全ては良いものだと肯定する態度、つまり「コンテンプラチオ」が余暇の本質だと言えましょう。(ヨゼフ・ピーパー『余暇と祝祭』〔講談社学術文庫〕P.71より”
*コンテンプラチオ:自分が持っている最高の能力を対象に向かって発揮している状態。深く考えること。観想。


見ることであり、見られることが、余暇。


何かをして、全体を見回して、「これでよし」と思えるまなざし、それが余暇。


仕事がおわって、あーー片づけた、というのではなく、自分で自由に何かを成し遂げた後の、「これでよしの」、まなざし。あー、今日は楽しかったなぁ、というまなざし。

ちょっと、わかるようなわからないような。。。


でも、疲れ切ってあーおわった、ではなく、「これでよし」と思える感じ。
ちょっと、わかるような気がする。


読書も、その本があたりでもはずれでも、「これでよし」に出会える余暇だ。

 

私も、ぷー太郎1年を過ぎた。

1年間、けっこう、「これでよし」と思える時間があった。

そろそろ、働き方を再考してみよう。。。

 

マイペース、マイペース。

あせらない、あきらめない、人と比べない。

働くことを楽しめる仕事をしよう。

 

楽しむこと。

それが、今の私の生存戦略