『国家と資本主義支配の構造』 by 佐藤優 (その3)

国家と資本主義支配の構造
同志社大学講義録
民族とナショナリズムを読み解く
佐藤優
青春出版社
2022年7月5日第一刷

 

さらに、一昨日、昨日の続き。アーネスト・ゲルナーの『民族とナショナリズム』をテキストとした、佐藤優さんの同志社大学での講義本。

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目次
序章 ”マクロな視座”があなたを人生の呪縛から解放する
第1章 国家は”暴力””を独占し国家をシステム化する
第2章 人類の”生産力””が上がるたび社会構造は激変する
第3章 現代社会の本質は”永久の椅子取りゲーム”だ
第4章 ”差別”と”階級闘争”が人類の歴史を動かしてきた
第5章 ”能力至上主義”という新たな差別が始まっている
第6章 資本主義の”激流”に飲み込まれてしまわないために
あとがき

 

昨日の続きで、第5章から。

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・第5章、”能力至上主義”という差別の話。
農業社会から産業社会へ変化し、ナショナリズムのありようも変わってきた。近代的な産業社会で必要とされる労働力を生み出すには、国家が均質的な教育を行って均質的な人材を作っていく必要がある。 その過程を経て国民に民族という意識が形成される。従って均質的な教育によって均質的な人材を目指す、という国家システムが機能しなくなれば、ナショナリズムも生まれてこない。この、均質的な教育によって均質的な人材を作る仕組みは、工場で物をつくる仕組みに似ている。あるいは、軍隊が軍人を教育する仕組みとも。
そして、均質的な人が出来上がると、その先には、能力によってその人の配置を割り振る、ということがでてくる。そのような能力主義の社会の事を、「メリトクラシー」という。資本主義が発展するほど、このメリトクラシーも激化してきた

東京大学大学院教育学研究科の中村高康教授著『暴走する能力主義教育と現代社会の病理』(ちくま書房)が紹介されている。ぜひ、みんなに読んでもらいたい本だと。ちょっと気になる。今度、読んでみよう。

そこで言われているのは、大学の偏差値ランキングのようなものでも、日本でのランキングと、国際的なランキングで比べれば、大きな違いがある。つまり、相対的なランキングでしかないものが、あるメディアのなかでの評価だけをみていると、小さい世界でのランキングでしか見えなくなる。そして、その小さい世界から別の世界に移ったとき、能力アイデンティティが壊れてしまう。地方での秀才が東京にでてきて、がっかりするとか、東大生が国際学会でがっかりするとか、、、。
云いたいのは、「能力の定義」というのは、実に曖昧で、不確かなもの、ということ。
なのに、ある集団における能力の定義で判断され、ある集団の中での評価に一喜一憂してしまう、、、。その愚かなこと。。。

 

これは、会社の中での話にも当てはまる。ある会社ですごい能力だと評価されていた人が、他の会社に転職したときにどう評価されるかは、まったくわからない。社内政治で出世した人は、社会の他の集団のなかでも評価されるかといえば、まず、評価されない。あるいは、定年退職した管理職が、地域社会でどう評価されるかといえば、その人の会社での評価とは一致しないかもしれない。

 

資本主義社会における能力至上主義は、どこの集団での能力なのか、、、、。永遠の椅子取りゲームが身近に見えてくる。私は、会社の中での椅子取りゲームからは退場する道を選んだ。51歳での決断。時代の流れで言えば、女であるというだけで座れる立派な椅子があったかもしれないけれど、誰かにとって立派な椅子であっても、私には不要な椅子になっていた。

 

・第6章、では、資本主義の激流に飲み込まれないためにはどうすればいいのか。
ハンガリーの哲学者、ルカーチの『歴史と階級意識』(白水社、1991年)のなかから「自らの階級支配の構造を隠蔽しようとする資本家の意識こそ虚偽の意識である」という言葉が引用されている。つまり資本家が労働者を「だます」ために真実を隠蔽している、というわけだ。

佐藤さんのたとえ話が、 実にわかりやすい。

 

”例えば会社で本部長から執行役員になったとするでしょう。年収が1500万円ぐらいになったとする。本人はこれで経営者の仲間入りだと思っている。ところが客観的に見たら労働者は労働者なんですよ。だって経営者側だと言ったって、会社に出資しているわけじゃないんだから。名称だけ「役員」という言葉がついているけれど、それは経営陣からしたら一種のカムフラージュでさ。場合によっては、残業手当などの社員には保証される手当が全部なくなって、手取りが減ることもある。でも責任は増える。こういうのも虚偽の意識の一つだよね。”
と。

あ、これ、わかる。
私が、脱サラをしてみて、結局のところサラリーマンは部長でも所長でも、「指示待ちに過ぎない」と感じたのと同じ構造だ。管理職であっても、自分には、意思決定権はないのだ。ついでに、女性だからという理由で用意されている椅子も、虚偽の意識の表れかもしれない。

 

でも、こういう「虚偽意識」は世界のいたるところにあるという。「人は必ず死ぬ」という真実も、普段は隠蔽されている。ところが、その死が自分に突然迫ってくると、その事実に慌てる。本当は、知っているのに、人は必ず死ぬなんて。。。。そして、人は宗教に走ったりする。

人間は、自分のアイデンティティーを揺るがせたり、自尊心を傷つけたりするものからできるだけ目を逸らそうとする。それが真実であってもなかなか見ようとしない。そういうところに虚偽意識ははびこる。。。。

なるほどぉぉ・・・・・。

 

これは、公正世界仮説と同じだ。。。

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現実、能力至上主義があったり、永遠の椅子取りゲームが繰り広げられる社会があったりする。そして、時にその流れに巻き込まれ、一喜一憂し、場合によっては失望する。でも、そういう苦しみの中にあるとき、苦しみの原因は「社会構造の問題である」と突き放してみることができるか、できないか、が大事なのだと佐藤さんは言う。

佐藤さんが、鈴木宗男事件で有罪判決を受けて東京拘置所で過ごしていた時にも、屈折せずにいられたのは、そのように苦しみの原因を突き放して考える思考ができたことも大きいのだろう。もちろん、プロテスタントとしての信仰もあったであろうが。

 

いま、世界や社会で起きている出来事を相対化して捉えることができるようになると、経済格差、民族間の紛争、国家間の紛争、人種差別など、すべての問題について、違った見方ができるようになるはずだ、と。世の中の仕組みを見抜くための視座を得る、それが、『民族とナショナリズム』を読みこなす、究極の目的なのかもしれない。 

 

実に、様々な方面から思考が交わり、興味深い一冊だった。もちろん、『民族とナショナリズム』の読み方も、人によって違うだろうし、これは佐藤さんの視点からの解説本だ。差別についても、本当に「経済力」ということが究極の原因と言えるのか?私の中にはまだ疑問も残る。すごく稼いでいても、「でも○○な人でしょ」という差別意識は、あるような気がするから。ただ、集団としての差別だと、確かに経済力の影響は大きいと思う。

 

本書のように一つの本を軸としながらも、様々な分野の話に展開する話というのは、学問としては、何に分類されるのかな?と思った。何を勉強すると、歴史と政治と社会と経済と、、、全てが交わる複雑系を理解できるようになるのだろう?

あるいは、何か一つの学んでもダメってことか。

やはり、広く、リベラルアーツかなぁ。。。

 

読書は楽しい。

学ぶことは楽しい。