『ゼロからの「資本論」』 by  斎藤幸平

ゼロからの『資本論
斎藤幸平
NHK出版新書
2023年1月10日 第一刷発行

 

2020年『人新世の「資本論」』集英社新書)で一躍有名になった斎藤さんの新刊。気になったので、早速読んでみた。

 

斎藤さんは、1987年生まれ。ウェズリアン大学卒業。ベルリン自由大学哲学科修士課程・フンボルト大学哲学科博士課程修了。大阪市立大学准教授を経て現在、東京大学准教授。

現在販売されている本書は、二重カバー。斎藤さんが腕組みしている写真が、カバーになっている。「人新世」のころに比べると、ちょっと老けたか?!?!

カバーには、

”「物質代謝」の観点からていねいに解説するいちばん分かりやすいマルクス入門。

 コミュニズムが不可能だなんて誰が言った。”とある。

そして、そのカバー内側には、

”私たちはいったい何のために、毎日つらい思いをしてこんなにたくさん働いているのでしょうか。

 

かつて〈コモン〉だった森や水は、誰もがアクセスできるという意味で「潤沢」な「冨」でした。しかし、これは資本主義にとって非常に都合が悪い。

 

労働力という「冨」が商品に閉じ込められてしまうことで、多くの労働者にとっては、人間が持つ能力の展開が阻害され、使い潰されてしまうのです。

 

例えば、マルクスは技術を素朴に賛美していたわけでもない一方で、頭ごなしに拒絶していたわけでもありません。この両義性をどのように解釈するかで、マルクスの思想は違った一面を見せるしそれに合わせて将来社会の構想も変化します。”
と、本文からの抜粋が。

 

目次
はじめに『資本論』と赤いインク
第1章 「商品」に振り回される私たち
第2章 なぜ過労死はなくならないのか
第3章 イノベーションが「クソどうでもいい仕事」を生む
第4章 緑の資本主義というおとぎ話
第5章 グッバイレーニン
第6章 コミュニズムが不可能だなんて誰が言った


感想。
うん、前半の『資本論』の解説は、本当にわかりやすい。『資本論』の解説と現状分析、とてもよくまとめられていると思う。私は、本家本元、マルクスの『資本論』を読破したことがないのでわからないけれど、数々の『資本論』に関する本の中では、もっともわかりやすかった。新書なので、読みやすいし、買ってよかった。全237ページ。税込み1023円なら、お得な買い物、って感じ。ただ、「クソどうでもいい仕事」の話あたりから、経済の脱成長のはなしになってくると、やっぱり、私の中では共感できないなぁ、、と思うところもでてくる。というか、彼が言う「クソどうでもいい仕事」を30年のサラリーマン生活でやり続けてきた身としては、やってきたことを否定されている感がぬぐえないから、違和感が残るのだろう。自分で自分の過去が「どうでもいい仕事」と認識していることと、他人にそういわれるのとは、ちょっと違う。。。。どれだけ、家族の何かを愚痴ったとしても、友人に自分の家族の悪口を言われると腹が立つ、っていうのと似ているか?!?!

 

それでもやはり、これまでの『資本論』とは、一歩進んだ解釈で読み込んでいるところが、斎藤さんのすごいところだと思う。そもそも、マルクスは『資本論』を完成させる前に亡くなっている。若いころのマルクスと、晩年のマルクスとではあるべき理想の社会構造が変わってきていて、一般的にしられているのは、どうしても若いころのマルクスだ。それを、MEGAプロジェクト(Marx-Engels-Gesamtausgabe :マルクス・エンゲルス・ゲザムトアウスガーベ)で明らかになりつつある内容から、新しい視点で解説してくれている。これまでの『資本論』の概念から、一歩先にいっている。まぁ、同じ文章も読み方次第で、解釈は変わりうるってことなのかもしれないけれど。

 

資本主義をマルクスがどのように捉えていたかが、第一章、第二章で、解説されていく。

マルクスは、人間が食べ物を作って食べたり、家をつくって住んだりして自分たちの欲求をみたしてきた活動を、自然との人間の相互作用としての「物質代謝と呼んだ。「代謝」というのは、まさに、アルコール代謝とか、脂質の代謝とか、人間が口にしたものがどのように栄養になり、残りかすがどのように排出されるかの仕組みのこと。地球を大きな生命体ととらえた感じで、マルクスは「人間と自然との物質代謝」と呼んだのだろうか。

そして、人間が自然との物質代謝を制御する行為が、「労働」というのが、マルクスの捉え方。

 

資本論』での「労働」の定義が引用されている。

労働はまずもって人間と自然との間の一過程、すなわち、人間が自然との物質代謝を自らの行為によって媒介し、規制し、制御する一過程である

斎藤さんは、マルクスの言う労働は労働者の「搾取」の話、とだけ考えていると、この重要な部分を見逃してしまう、という。
「搾取」は、まだまだ先の話で、そのまえに、労働と物質代謝が切り離せない、という事が語られている。

 

人間は、ただ機能としての洋服だけでなく、そこにデザインや装飾性も求めたりする。よって、動物や昆虫が自然をつかって物質代謝をするよりも、多様でダイナミックな自然への働きが起こる。そして重要なのは、この「物質代謝」は一方通行ではなく、循環だということ。人間が社会活動で排出したゴミは、どこかに消えてなくなるわけではない。地球のどこかに残留する。プラスチックごみを海に流せば、マイクロ・プラスチックとなり、それを食べた魚が再び人間の食卓にあがる。化石燃料をもやせば、二酸化炭素として排出され、気候変動へつながる。だから、代謝なのだ。

 

マルクスは、人間の意識的かつ合目的的な活動である「労働」が、資本主義のもとではどう営まれているかを考察し、資本主義が台頭する以前から変わった点、その特殊性に迫っていった。あらゆるものが「商品」となっていったのが資本主義なのだ。

 

資本論』は、まず、「冨」からその話が始まる。「労働」や「商品」ではなく、「冨」とは何なのか。マルクスがいう「冨」は、金銭的な豊かさの事ではなく、ひとり一人が知識・文化・芸術、コミュニケーション能力、といった貨幣ではかれないような「財産」のようなモノに潤沢に触れることができる環境をさしている。社会の「冨」とは、ひとり一人が生きるのに必要なものが、豊かに、リッチにある状態の事。そして、そのような「冨」を生み、維持、発展させるのが「労働」。つまりは、人間の活動そのもの、ということだろうか。知識をつける、学ぶという活動も労働。小説を書くというのの労働。絵を描くのも、料理を作るのも、全部労働だ。

資本主義は、この「冨」を生み出す「労働」がなんでも「商品」になっていった、というのがマルクスの見解。

 

なんでも「商品」になるというわかりやすい例として「水」の話がでてくる。昭和の時代、「飲料水」は水道からでてくるもので、コンビニで買うものではなかった。それが「商品」となった。発売当時は違和感があったけれど、いまでは「水」を買うのが当たり前になっている。

といっても、先日、コンビニで「温かい水」が売られていたのには、びっくりしてしまった・・・。まだ、見慣れていないというだけで、あっというまに「温かい水」にお金を払うことも違和感なくなってしまうのだろう。
こうして、私たちは、なんでも貨幣でかえる「商品」にしてきたのだ。水をペットボトルにする会社があって、それを運ぶ物流会社があって、それを売る販売店がある。たくさんの労働の結果として、私たちは「水」を「貨幣」と交換することができる。

 

森の木も、ある日から誰かの所有物になって、自由に切ることもできなくなってしまった。本書では、ドイツの話が出てきたが、日本なら島崎藤村『夜明け前』の世界だ。

今では、ベランダで家庭菜園をしようと思えば「土」を買ってくる。私が子供のころは、土は裏の林からとってきた・・・・。当時も誰かの所有地だったとは思うけれど、、、、。

なんとなく、人の手が加わっている加工品は、「商品」というきがするけど、ただペットボトルに詰めたり、袋につめただけで商品になるのが当たり前になっている。流通も、サービスも、全ては「商品」だ。誰かの労働の対価として賃金にもつながる「商品」だ。

 

そして、労働者と資本家の話に繋がっていく。どんなに余剰価値を生み出しても、儲かるのは資本家であって、労働者は一定の報酬しかもらえないのが、資本主義の仕組み。

その仕組みの説明として、わかりやすかったのが、労働のプロセスが「構想」と「実行」という要素に分けられるという話。「構想」というのは、何を作ってどうもうけるか、といったような経営をかんがえる要素。「実行」というのは、それを実際に形にするために手を動かすこと。

 

「温かいものが食べたい」となって、「煮炊きをするための道具」が必要でどんな鍋を作るか、、といったことを考えるのが構想。実際に土をこねて土鍋をつくるのが「実行」。計画と実行といった方がわかりやすいかもしれない。本書の中では、「構想」と「実行」となっている。そして、この「実行」しかしていない人が搾取されている「労働者」ということ。会社の中で「経営の立場で考える」なんていう管理職の立場になったとしても、しょせん本当の意味での「構想」をしているわけではない。

 

この「構想」と「実行」の分業という考えは、ちょっと、目からウロコだった。

 

私は、サラリーマンをやめてから、つくづく「サラリーマンって、結局のところすべて指示待ちなんだ・・・・」と思うようになった。課長だろうが部長だろうが、管理職にだって会社の「構想」実権はない。。完全に経営側に行ったとしても、経営会議で自分の意見が全部とおるわけではなく、会社としての合意が必要だし。ワンマン社長だけが「構想」している人で、他はみんな「実行」をしているに過ぎない。どれほど提案していようと、たとえ自分の提案が会社の方針になろうと、「構想」するひとからの指示待ちと変わらない。だって、そのひとがYESと言わなければ、「実行」に移れないんだから。。。。そう感じるようになったのだ。

部下のことを「指示待ちじゃだめだ」なんて言っておきながら、自分だって「指示待ち」していたに過ぎないなぁ、と思うようになったのだ。雇用主にやとわれているというのは、結局、労働時間の提供でしかなかったのかもしれない、、、と。それでも、様々な学びの機会もあったし、実際、知識もスキルも身についたので、30年のサラリーマン生活を後悔したことは全くないけど。


資本家は、労働者から「構想」する機会を奪うのだ。。。そして、「クソ仕事は」資本家でなくても労働者から「構想」する機会を奪う・・・。


分業、あるいは機械化や自動化によって作業が単純化すればするほど、「構想」は不要になる。「実行」する者たちは、自分の時間を「労働力」として資本家に提供する。

これが、搾取につながるっていうことなのか、、、、と、すごく納得してしまった。

 

そして、そういう社会が、「構想」ではなく「実行」のための「実行」のような「クソ仕事」を生むのだという。価値を生まないのに、発生する仕事・・・。無くても困らない仕事、、、、。人から考えることを奪う仕事・・・

 

私自身、会社の生産性向上のために、かなり熱心に取り組んだ仕事があったのだが、あれも、各拠点から「構想」を奪っただけだったのだな、、、ということになる。数年がかりで取り組んだ大プロジェクトで、その後後任にも引き継がれ続けた、それなりに評価された仕事だったのだが、私自身が途中からこれでいいのだろうか?これはあと数年で廃れるのではないか??と思い始めていた。暗黙知だった知恵や考え方を明文化し、わかりやすくなったと多くの賞賛もいただいたが、「構想」することを奪っただけだ、、、、。私が途中から感じ始めた違和感は、これだったのかも、、、と思った。


本書の最後の方は、これからの社会をどうしていくのがいいのか、という話になっていく。まぁ、これからの社会は、これからの若者にゆだねていくことになるんだなぁ、、なんて感じつつ、、、本を閉じた。

 

やっぱり、「脱成長」という言葉には賛同できないなぁ、というのが感想。いうほど、今の社会は悲惨なんだろうか???そんなにみんな働くことが辛いのだろうか???
環境破壊を止めなくてはいけないというのは、大いに賛同する。大量生産の時代ではなくなったのは、その通りだと思う。
かといって、地球資源、環境といった〈コモン〉を守れば、それでうまくいくのか???人は、豊かになるのか???

結局のところ、なにを成長と感じるか、何を豊かと感じるか、、、人それぞれだよなぁ、、、と思った。

 

「幸せ」とか、「豊かさ」とは、時代時代で変化していくものなのだろう。

そのセンスみたいなものはある日突然変化するわけではなく、漸進的に変化していくものであろうし、そうでなくてはいけないと思う。

革命なんて起きなくていい。徐々に変化すればいい。そうでないと、ヒジャブ1枚で命を落とすアミニさんの悲劇のような事件は無くならない・・・。

革命で起こした変化は、その揺り戻しも大きい。

 

でもね、突っ走って転んで痛い目に合わないと、そうは思えないんだよね。

 

たしかに、「実行」しかしていないのに、「構想」していると思い込んで長時間労働が無くならない現状が今の日本にはある。思考することを人から奪っているともいえる。

だけど、全員が「構想」する側になる社会というのは、やはりありえないだろう。自分の得意とすることを社会に提供する。その内容は人それぞれだし、誰かにとってつまらない仕事が、誰かにとっては幸せな仕事かもしれない。

改善の余地は、どんな世界にもある。

どんな仕事も時代とともに価値は変わる。

 

自分の時間を何に使うか、それを決めるのは一人一人だ。

何を豊かと感じるかも、人それぞれ。

そういう、自分にとっての価値観というのも、色々な経験を通して変化していくもの。

大事なのは、その変化を恐れないことではないだろうか。

 

なかなか、色々なことを考えさせられる一冊だった。

読書は、楽しい。