『暇と退屈の倫理学 増補新版』 by  國分功一郎

暇と退屈の倫理学 増補新版
國分功一郎
太田書店
2015年3月13日 初版第一刷発行
2015年5月19日 初版第三刷発行

 

新聞広告で、新版がでた、と出ていた。ちょっと気になったので図書館で検索してみたら、2015年の古いものが出てきたので、借りてみた。437ページと分厚いソフトカバーの単行本。

 

著者の國分さんは、1974年生まれ。東京大学大学院総合文化研究所博士課程修了。博士(学術)専攻は哲学。現代フランス哲学が専門で、スピノザドゥルーズに関するものなどたくさんの著書もあるようだ。私は、多分、初めて読んだ。

 

感想。
なかなか、面白い。分厚い本で読み応えがあったけど、割と読みやすい。文章も明快で、哲学書としてはとても読みやすいと思う。人間は、なぜ退屈するのか?退屈にどう対応してきたのか?退屈はわるいことなのか?って、そんな話。


目次

序章 「好きなこと」とは何か?
第一章 暇と退屈の原理論  うさぎ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
第二章 暇と退屈の系譜学   人間はいつから 退屈しているのか? 
第三章 暇と退屈の経済誌   なぜ暇人が尊敬されてきたのか? 
第四章 暇と退屈の疎外論   贅沢とは何か ?
第五章 暇と退屈の哲学   そもそも退屈とは何か? 
第六章 暇と退屈の人間学   トカゲの世界をのぞくことは可能か? 
第七章 暇と退屈の倫理学   決断することは 人間の証か?
 結論 
あとがき 


そもそも、退屈とは何か?きっと、誰にも「退屈だ」と思った経験があるはずだ。手持無沙汰で退屈なのはよくわかる。面白いのは、人間は仕事で忙しかったとしても「退屈だ」ということ。うん、あるある。でも、仕事をしていれば退屈の気晴らしになる、、、、のだと。

 

「人間は考える葦」といったパスカルによれば、人間の不幸は退屈することから始まる。退屈するから部屋でじっとしていられない。そして、不幸になる、、、と。意地悪な例がでてくる。ウサギ狩りに行こうとしている人にウサギを渡しても喜ばないということ。ほんとうはウサギが欲しいからウサギ狩りに行くのではないってこと。退屈の気晴らしに、ウサギ狩りに行きたいのだ。パスカルに言わせれば、欲しくもないウサギを手に入れることが幸福だと思い込んでいる、、、と。

賭け事もしかり。賭け事をする人は、お金が欲しいのではなく、そのスリルが欲しいのだ。だから、贅沢できるほどのお金を与えられても喜ばない。スリルを味わう機会をうしなってしまうのは、気晴らしを失ってしまうことになるから。求めているのは、「暇の気晴らし」なのだ。熱中できることで自分をダマすのが気晴らし。

ほほう。なるほど。
たしかに、ありとあらゆることがそういう意味では暇の気晴らし、、、かもしれない。

 

バートランド・ラッセルマルティン・ハイデガーの言葉が説明され、不自由のない生活こそが不幸の始まりで、「退屈」の反対は「快楽」ではなく「興奮」なのだと言う話もでてくる。人が退屈な時に期待しているのは楽しいことでなくてもいいのだ。何かの変化をおこす「興奮」を人は求めるのだ、と。でも一方で著者は、だからといって誰かの不幸を求めるのは間違っている、と。

 

第二章では、人間はいつから「退屈」になったのか。著者によれば、きっかけは大昔、定住生活を始めたことによるのではないか、と。移動生活では都度周囲に気を張り巡らしておかないと生命の危険と隣り合わせだった。定住することで、ゴミやトイレといったこれまで移動生活ではなかった問題が生じたけれど、人々はそれを解決してきた。ただ「持てあました時間」という暇への解決策は、現代においても模索中なのだ、と。
ちなみに、縄文土器に模様があるのも、暇だったからだ、、と。そしてそれが文明へとなっていったのだ。

 

退屈の起源は、定住生活にあり。

 

第三章では、その後人類は暇とどう付き合ってきたのか。そして、本書のタイトルに立ち返って、暇と退屈の違いは?と。


暇は客観的な条件に関わっていて、退屈は主観的な状態のこと、と。ま、どっちも時間を持てあましている状態だ。「ひまじん」というと、ちょっと否定的なネガティブな言葉だけれど、かつての貴族社会はまさに「有閑」な人々であった。「やるべきことがない」ことこそがステータスだった。しかし、その有閑階級は19世紀末から20世紀初頭にかけて、凋落していく。富の再配分のみなおしが始まったからだ。そして次に、「暇」を見せびらかす「有閑」にとってかわったのが、「消費」を見せびらかす社会。また、労働者も余暇を持つようになる。そして、それは、「暇を生きる術を知らないのに、暇を与えられた人間」の大量発生につながった。有閑階級は、「品位ある閑暇」が過ごせた。でも、労働者は「暇」をどう過ごせばいいのかわからなかった。そして、そこから「暇の搾取」に繋がっていく。

「暇の搾取」とは、ほんとうは求めていないのにメディアに薦められて、その時間を費やしてしまう事。だらだらTVをみるなんて、暇の搾取の代表例。

 

著者は、社会主義者のポール・ラファルグの主張をとりあげ、余暇について大いなる間違いをおかしている、という。ラファルグは、労働をもとめることではなく余暇をもとめることが労働者が資本の論理の外にでる術だ、といったけれど、著者に言わせると「余暇は資本の外部ではない」のだと。そして、暇の搾取の話になる。

マルクスの理論からしても、人間に無理をしてはたらかせると効率が落ちるので、やたらめったの労働者をこき使うのはよろしくない。労働者に適度に余暇を与え、最高の状態ではたらかせること、それこそが資本にとって都合がいいこと、ということ。

それに気が付いて、実践したのがアメリカのヘンリーフォード。フォードは、自動コンベアの導入という労働環境の向上、一日8時間と余暇の保証、といった労働者にとって素晴らしい環境を提供したうえで、売り上げを伸ばし、大きな成功をもたらした。でも、フォードが実行したのは、労働者のための戦略ではない。資本の生産性向上が最大の目的だったのだ。休みを与えられた労働者が、休暇の間に家庭のもめごとやアルコールなどで体調不良になることを避けるために、工場の外に出た労働者を監視・管理した。余暇も監視対象だったのだ。つまり、「暇」も資本の論理中にがっちり組み込まれているということ。

「24時間働けますか」も、仕事以外でも働け、ってことだったのだ、と。
また、アメリカの1920年禁酒法も、人々の健康のためであったかのように言われたが、労働の合理化が目的だったのだ、と。

 

次なる搾取は、レジャー産業。余暇は資本に転嫁された。余暇を過ごすのに、現代ではどれほどのお金をつかっていることか。。。。ディズニーランドの1日券が値上げされたらしいけど、余暇とビジネスは繋がっているのだ。余暇を与えられた労働者は、余暇でお金を使う。。。
ほんとは、お金なんかかけなくても余暇の過ごし方はいくらでもあるのだけれど、大量生産大量消費の時代は、余暇も消費でしかないのだ。

 

第五章、六章の哲学や人間学の話では、ハイデガーが取り上げられる。ハイデガーの『退屈論』は、動物は退屈することがなく、人間だけが退屈するのだ、というお話でおもしろいらしい。ただ、著者はハイデガーの論旨に全部賛同しているわけではない。ハイデガーは、動物は毎日同じことを続けていても飽きないし退屈したりしない。つまり「環世界」に生きているといった。でも、人間は同じくり返しには生きられないから環世界にはいきていない、と主張した。著者は、ここが否なのだ。人間が「環世界」から「環世界」へ、常に移動しながらいきているのだ、と。

つまり、変化を求めるのが人間。それは変化を自分で選択する自由を求めるということ。自由をもとめる気持ちこそが、「退屈」をうむ。

なんだか、うまく丸め込まれてしまったような気になるのだけれど、「退屈」するのは、次の変化を求めているから。変化を求める自由がない奴隷は退屈することができない。そして、「退屈したくない」現代人は、やもするとみずから「仕事の奴隷」になりたがっているのかもしれない、、、、、なんて思った。

 

最後に、結論、がまとめられているのだけれど、そこに書かれているのは、「結論だけ読んでもだめだよ」ってことだった。最初に結論だけ読んでみようと思った私は、、、、姑息だった・・・。で、ちゃんと最初から読んだよ・・・。


一つ目の結論
こうしなければ、ああしなければと思い煩う必要はない。

二つ目の結論
贅沢を取り戻すこと。
贅沢とは浪費することで、浪費する事こそ豊さの条件。でも現代では満足を求めて消費が継続され、消費しても消費してもいつまでも満足が遠のく。。。そして、退屈になり、疎外感を感じる。消費するのではなく、ものを受け取れるようにすること。消費ではなく浪費でいいのだ。芸術は消費するものではない。食を楽しむのも消費としてではなく、贅沢としてとらえる。

三つ目の結論
人間が人間らしく生きることは退屈と切り離せない。人間は、同じ習慣だけを繰り返す動物の様には生きられない。だから退屈があるのが人間なのだ。

そう、「退屈」万歳!ってことだ。 

 

ほんとに、本書は、最初から順を追って読んでいくと(普通はそう読むだろう)、とても親切に書かれている。

 

「退屈だな」と思ったときは、変化のチャンスなのだ。楽しいパーティーのはずなのに参加していても退屈だな、って思うのは、自分にとっては「環世界」になりつつあるということ。つまり、「興奮」をもたらす環境ではなくなっているということ。

それは、「会社」も然りではないだろうか。

会社に退屈してきたら、変化の時が来たということ。それは、転職すればいいという単純なことではない。同じ会社の中でだって、新しいチャレンジはできる。

 

人間にとって「退屈」は、環境を変えるべき時が来た、ということなのだ。

そんな風に思えるのは、人間だけ、ということらしい。

 

「退屈」したときこそ、チャンスと思って、一歩先に踏み出そう!