禅と日本文化
鈴木大拙著
北川桃雄訳
岩波新書
1940年9月30日 第1刷発行
1964年3月21日 第21刷改版発行
2022年12月5日 第95刷発行
言わずと知れた、名著、『禅と日本文化』。若いころにも読んだことがあるけれど、とある勉強会での課題本になっているので、改めて読んでみた。新書を購入するとともに、耳読用にkindleも購入した。
表紙裏の説明には、
”禅と日本文化
禅は日本人の性格と文化でどのような影響を及ぼしているのか。そもそも禅とは何か。 本書は 著者が欧米人のためにおこなった講演をもとにして英文で記されたものである。 1940年 翻訳刊行いらい 今日まで、禅そのものへの比類なき入門書として、また日本の伝統文化理解への絶好の案内書として読み継がれている古典的名著。”
西田幾多郎の『善の研究』と鈴木大拙の『禅と日本文化』は、まさに日本の伝統文化理解の入門書だ。二人は、学生時代からの友人同士であり、本書の序には西田幾多郎からの言葉が記されている。『善の研究』も改めて読み直したいな、という気持ちになった。
目次
第1章 禅の予備知識
第2章 禅と美術
第3章 禅と武士
第4章 禅と剣道
第5章 禅と儒教
第6章 禅と茶道
第7章 禅と俳句
感想。
そうか、こんなにわかりやすく説明されていたのか・・・・。
昔読んだ時には、さっぱりチンプンカンプンでよくわからなかったのが、今はだいぶわかるようになった、気がした。そうか、、、こういうことが書いてあったのか、、、と。
本書は、元々は英語で書かれた本であり、日本人のために書いたのではなく、日本のことを理解してもらうために欧米人のために書いた本。鈴木大拙は、禅は言葉で説明するものではないという主張をしていたので、こうしてわざわざ文字にして本にすることは自己矛盾であることを認めつつ、よりよい理解のために書いたのだということを序文に記している。
学術的に書いたというよりは、わかりやすく優しく話して諭すような書かれ方になっている。講演をもとにしたということのなので、そうなっているのだろう。
そう思って読むと、漢詩や古語がでてきて、うむむむ難しい、と思うところもあるのだけれど、優しく響いてくる言葉の旋律もある。なるほど、やっぱり、一家に一冊、って本かもしれない。養老孟司先生にならって、2Bの鉛筆で線をいれつつ、教科書のように読んでみた。
また、新書の活字は、昔懐かしい岩波新書の活字だ。現代ならもっとクリアな活字もあろうに、、、とおもいつつ。ちょっと、インテリっぽい?感じを楽しんだ。
特に心にのこったことを覚書。
・”日本人は不均衡を好む”
日本の美は、非対称が多いという話。アシンメトリーだ。日本家屋、伽藍、生け花なども左右非対称だ。そして、非対称であることから、そこには無の空間もうまれる。そこに、物質で満たされるものではない貧困も含む孤独性(わび)、古びた孤絶を含む孤独性(さび)が生れ、それを心地よく感じるのが日本人。
・禅の無心はスペインの闘牛士の無心と重なる
無心になったときにこそ、孤高の強さが生れる。あぁしてやろう、こぉしてやろう、なんて考えている時には、邪念があるけれど、ただ無心になったとき、無敵になるのだ、と。それは、剣術でも、茶道でも、闘牛でも、、、。
・「武士道とは死ぬこととみつけたり」(葉隠)
これもまた、「無心」になるということ。
先日は葉隠の現代解釈、のような齋藤さんの本を読んだけれど、本書の方が短い文章だけれど、葉隠の本質をとらえている気がする。比べるものではないけど。
各章で、関係するエピソードや逸話が紹介される。師匠が弟子に体を張って教えることであったり、師と僧との禅問答であったり。武士の話の中では、武田信玄の師、恵林寺の快川和尚が織田信長の焼き討ちにあったときの言葉が紹介されている。
”心頭滅却すれば火もまた涼し”
よく聞く言葉だけれど、誰の言葉だったのかは忘れていた。快川和尚もまた、無の境地だったのだろう。
他にも、様々な事例は日本史の勉強にもなる。禅の広がりは仏教の広がりだったわけでだが、鎌倉時代には京都では禅は受け入れられづらく、鎌倉で広まったということ。だから今でも鎌倉五山なのだ。京都五山のほうが、時代として少し後になるのかもしれない。
ここで復習すると、
北条時宗は、北条時頼の息子で、北条泰時(御成敗式目をつくった)から三代目。元寇の際に日本をひとつにまとめた人格者だと言う。そして、時宗のお墓は鎌倉の円覚寺にある。
時頼も、時宗も坐禅をしていた。当時、武士の間では禅の修行が鍛錬の一つだったのだ。そして、そのことが人格者を作ったのだ、と。
ちなみに京都五山は、室町時代になって格付けされている。
・南禅寺(足利義満が相国寺を五山にするために、特別の位とした)
・天龍寺
・相国寺 (足利義満が無理やり五山に入れた)
・建仁寺
・東福寺
・万寿寺
最後の俳句の章では、松尾芭蕉や千代女の俳句などが紹介される。有名な句であるほど、様々な解釈があるのだろうけれど、本書での解説は、自然な感じがして心地よい。
古池や蛙とびこむ水の音 (芭蕉)
朝顔につるべとられて貰い水 (千代女)
どちらも、様々な本で引用されているし、これが日本の美というのか、日本人の感性、情緒なのだ、といわれると、そのことをちょっと誇らしく思ったりして。。。
朝顔に・・・の歌は、以前、安野光雅・藤原正彦 著『世にも美しい日本語入門』でも紹介されていて、藤原さんの解釈に笑った。でも、今回読んでも、どんな意味だったか忘れていた。
ここでも、読んでいたのに、もう意味をすっかり忘れていた。綺麗な朝顔に見とれて、つるべを握る手を滑らせて、自分に水をかけちゃった、って意味かと思ったら、そうではない。
朝早く近くの井戸から水を汲もうとでてきて、つるべに朝顔が美しくまきついていた。朝顔を取り除くのは忍びないので、よそにお水をもらいに行った、ということ。
まぁ、日本人でなくても同じようにするのかもしれないけれど、日常の小さな幸せの感じが、なんとも、いい。
他にも、お茶の話、剣道、儒教、どの話も興味深い。
今更ながら、日本で生まれ育って当たり前と思っていることも、他の国の人から見ると奇妙であったり、ことさら美しく感じたりすることもあるんだな、と思った。
日本人であること、私の中にもある日本人っぽい感じ方に、少し、自信を持てる一冊。
自画自賛かもしれないけれど、やっぱり、日本文化、好きだな。
そして、日本文化の背景には禅の心がある。
べつに、あってもなくてもいいけど、、、やっぱりある。
「無心」というものがある。
無だからないけど、ある。
無は、無。
神秘として無を受け止めよう。
昔、若いときは、今より頭でっかちで頭で理解しようとしていて難しく感じたのかもしれない。本も、頭で理解しようとする前に、文字として、文章として、言葉としてサラサラと頭に流れ込むようにいれると、なんとなく入ってくる。わからないからと言って何度も同じ個所を読むよりは、一度全体をさーーっと読んで、それから同じように全体を読み直した方が理解が進むことがある。
自然体で受け止めるって、大事だ。