禅の言葉 『己こそ、己の寄辺』

先日の朝のZoom坐禅会で教えていただいた、禅の言葉 

『己こそ、己の寄辺』

 

おのれこそ おのれのよるべ おのれをおきて だれによるべそ
よくととのえし おのれにこそ まことえがたき よるべをぞえん
                        ダンマパダ(法句経)

己(おのれ)こそ 己の寄辺(よるべ)
己(おのれ)を良く整えることが大事、ということ。

 

パーリ語で、『ダンマパダ』という、とても古いお教の言葉がある。
達磨さんの時代から、ちょっとすぎたくらいのころ、原点のようなお教。
漢訳したものが、法句経(ほっくきょう)

すべては、釈迦に帰れという事をいっていて、釈迦が自分ではなした言葉のお教。
日本語に訳すと、

己こそ、己の寄辺。
己をおきて、誰に寄るべぞ。
良く整えし己にこそ、まこと得難き、寄る辺ぞを得ん。

おのれこそ おのれのよるべ 
おのれをおきて だれによるべそ
よくととのえし おのれにこそ まことえがたき よるべをぞえん

 

自分をよく整えること
坐禅は、これに尽きるということ。
釈迦に帰れ、ということ。

 

ヨーロッパの宗教改革は、聖書に帰れ、と言った。
経典とか儀式とか色々あるけれど、聖書に帰れ、と。それと同じようなこと。
日本では、鎌倉仏教で、念とか禅ということで展開した。
あまたの経典は不要。坐禅すればいい
仏陀(釈迦)に返れ


では、坐禅瞑想の原点とは?
坐禅は、禅宗の一つのやり方でもある。


神道のみそぎ、滝行などで、まことの心を得ることを神道では重んじている。神道での修行法、心をととのえるやりかたとも共通する。


儒教陽明学朱子学などでは、静坐を重んじる。これも共通する。


イスラム教では、スーフィーの瞑想というものがある。
チベットにも瞑想がある。
オーストラリアのアボリジニの瞑想。
カトリックの修道士の瞑想。
先住民族の瞑想 

 

世界全体につながる基本原理。

だから、

坐禅の習慣、瞑想の習慣を取り入れると、生命の原点に戻って、元気が出てくる。

 

「千万人と雖も吾往かん(せんまんにんといえどもわれゆかん)」という、
良心に恥じるところがなければ、千万人の敵に対しても恐れることなく向かっていこう!という元気が出てくる、と。

 

坐禅中は、

寝ているわけではない。

覚醒しているけど、無になっている感じ。

 

なにかに、本当に集中しているときと坐禅しているときと、ちょっと似ている気がする。ほかのことが目に入らないし、聞こえないし、ひたすらそこにあるものに向きあっている感じ。

 

何かに集中した後は、脳に疲労感があるけれど、そう快感もある。

坐禅は、疲労感なく、そう快感がある。

 

時々、空っぽになるって大事だ。

 

コロナ、ウクライナ、、、どうも頭の中に懸案事項が多くなりがちだけど、そういうことを忘れるくらい集中できる何かがあるというのは、幸せなことだ。

そういうことを忘れるくらい、静かに坐禅できるというのも、幸せなことだ。

 

ときどき、頭の中を空っぽにしよう。

脳の中の断捨離。

頭の中がすっきりすると、心も体も軽くなる。

春に向けて、すっきりしてみよう。