「abさんご」 by  黒田夏子

abさんご」 
黒田夏子
2013年
文藝春秋

 

先日、知人との会話の中で、黒田さんの話題が出たので、第148回 芥川賞 (2013年)を受賞した本書を手に取ってみた。
図書館で借りた。
手に取って思い出した。
私、これ、読もうとしたことある。。。


多分、一度、この本を手にした人は、忘れないのではないだろうか。
その特徴的な体裁に。

 

単行本の「abさんご」は、「abさんご」のほか、「毬」「タミエの花」「虹」の4つの物語から構成されている。そのうち、芥川賞受賞となった「abさんご」は、横書き。他の3編は縦書き。
まず、そこに、違和感というか、なじまなさを感じる。

左開きと、右開きが同居しているので、座りが悪いというのか。。。


そして、「abさんご」は、ひらがなが多用されていて、句読点「、」「。」もない。加えて「固有名詞」や「かぎかっこ」「カタカナ」が使われていない。
内容の問題ではなく、読みにくかった。


芥川賞受賞当時、75歳のデビュー作という事もあって、すごく話題になった。そして手に取ってみたけれど、あまりの読みにくさに未読であったことをおもいだした。
今回も、途中で投げ出そうかと思った。
けど、とりあえず、がんばって?!読んでみた。

たいした厚さの本ではないし、黒田さんがどういう人なのかが気になったので。


内容は、たしかに、裏(表?)表紙に書かれたように、
「二つの書庫と巻貝の小へやのある「昭和」の家庭で育ったひとり児の運命  
 記憶の断片で織りなされた夢のように美しい世界」
なのだと思う。


でも、ひらがなばかりで句読点が無いのは、普通の本を読むのの倍の時間がかかる。インプットに時間がかかるので、どうも、頭の回転数が合わない感じ。


多分、書かれている内容は、美しく、懐かしい情景が浮かぶのだけど、そのスローなペースのせいでイメージの輪郭がぼやける感じ、、、とでも言ったらいいだろうか。
失礼ながら、頭の回転が落ちた80歳位を過ぎて読んだら、もっと美しいと感じるかもしれない・・・・。

 

体裁はともかく、美しい回想の記録なのだけど、ふと、昔を思い出した文章があった。

昔を思い出させる小説、という気がする。

 

abさんごのなかに、〈虹のゆくえ〉というタイトルの話がある。その冒頭にでてくるのが、


「草むらをひかりぬけていく小型の有肢爬虫類に出あったらおやゆびを見られないように,見られると親の死に目にいあわすことができないといういさめをなんにんもから聞かされた小児は,いくつかの夏の道でいそいでおやゆびをにぎりこみもしたのだが,そうとほんきで信じていたわけではないのとおなじくらいに,そうであったからといってそれがそんなにさけるべき事態なのかどうかがさだかでなかった.」


句読点と漢字の無さの読みにくさを、感じてもらえただろうか?


と、この一文を取り上げたのは、「親の死に目にいあわすことができない」という言い伝え?


私は、爬虫類をみたらというのは聞いたことがないけど、「夜に爪を切ると」とかはよく言われた。そして、「おやゆびをにぎりこむ」という一節に、たしかに、子供の時、あわてて親指を中にして「ぐう」をつくったことがある気がした。

はて?
なんだったか?


よく覚えていないけど、たしかに、「いけない、親指隠さなくっちゃ!」って、あわてて、「ぐう」にした記憶がある。


なんだったか?
黒猫が横切る?

 

子供にとって、親の死に目に会えないと言われることの恐ろしさたるや。

昭和の時代、小学生の間は、なんだかんだいっても自分にとっては家庭が世界の中心。

今の子供達は、塾やらお稽古事やらあるのかもしれないけれど。

親に会えなくなるとか、親の死に目に会えないとか、考えただけで世界が消滅するほどの怖さだった。

そんな、小学生時代のことを思い出させる一文だった。

 

私の母は、専業主婦だった。

小学校から帰ると、在宅しているのが当たり前だった。

一度、学校から帰ったら鍵がかかっていて、ドアが開かない。

何年生だったのかは記憶にない。

鍵っ子だったわけではないから、家に入ることもできない。

サイレンのように大声で泣きだした私に、隣の家のおばさんが気が付いて、

「大丈夫だから、うちでちょっとママをまってみよう」といって、家に入れてくれようとした。でも、私が隣のお家に入ってしまったら、私が帰ってきていることに母が気が付かないかもしれないと思って、そのまま、家の前で待つと言い張る私に、おばさんは、

「ランドセルをお家のドアにかけておこう」といってくれた。

 

その後、どのくらいして母が帰宅したのかも記憶にないけれど、この世の終わりと思うくらい怖かったのだ。母に置いて行かれた、という気持ちだったのかもしれない。

そんなことをする母ではないし、私は十分に愛されていたと思うのだけれど、なにがそんなに不安にさせたのか。

 

子供にとって、家族がすべての時代がある。

小学校、中学校、高校、大学、就職。。。

そうしているうちに、いつか家をでる時が来る。

家をでて、四半世紀近くなるけれど、いくつになっても、親は親。

 

実家の玄関の扉は、数年前の改装で、ランドセルをひっかけられるドアノブが、今風の縦の握り手すりタイプに変わった。

 

今なら、実家の鍵をもっているから、締め出されることもない。

でも、年に数度しかいかない実家だけれど、鍵を使ったことは無い。

行けば、母がいる。

鍵は開いていることがほとんど。

鍵がかかっていても、自分では開けない。

ピンポンして、中から開けてもらうのが、実家。

 

そうだ、誰かが家にいる家に帰るという事を、ここ、何年もしたことがない。

ピンポンして、開けてもらえることの幸せを、ちょっと思い出した。

 

そんな、幸せな子供時代を思い出させてくれる。

そんな、「abさんご」だったのかもしれない。

 

読みにくかったけど、読んでよかった。