ハイコンテクストとローコンテクスト

ハイコンテクストとローコンテクスト

 

「Z世代」を読んでいてふと思ったのだが、もともと日本語、日本文化はハイコンテクストと言われているが、そのハイコンテクストぶりは、高まっているのだろうか?ということ。
そして、それは日本だけでなく、グローバルにハイコンテクストが求められつつあったりしないだろうか?ということ。

megureca.hatenablog.com

 

「間接自慢」などは、ハイコンテクストでなければ、コミュニケーションとして意味をなさないのではないかと思う。
言葉にせずに、相手に察してもらう。

察してもらえなければ、スルー・・・・。


SNSは、発信する事がメインの目的である。「いいね!」「返信」はあるにはちがいないけれど、そもそも大勢に一度に発信することがメインの目的だ。その発信の奥に潜むあれやこれや、ハイコンテクストでくみ取ってよね、という発信も中にはあるだろう。文章で発信する代わりに、#で伝えたいことを補完する。写真や動画が簡単に発信できるようになった分、言葉による説明が要らなくなった。


インターネットが普及する前は、今のように多数に一度に「発信」するということは、日常ではなかった。それが、いまや世界中でツイートされる。だれでも発信できる。日常をYou tubeで発信するというのもある。かわいい動物や赤ちゃんの動画は、ただ見ているだけでかわいいし癒される。でもその先に、この飼い主や親は、どんな人なんだろう、という連想がちらりと頭をよぎることはないだろうか。文字の少ない発信ほど、想像力が発動されてしまう。

文字のない発信は、日本だけでなく、世界中でおこっていることだ。


文字による発信が減り、世界中が、「くみ取ってよね!」のハイコンテクストを求めつつある、なんてことはないだろうか。


ちょっと古い文献になるが、ホール・エドワードTによると、ハイコンテクストとは、

 

1 価値判断は相対的なものである。(何が善であり、何があってあるかは状況によって変わる)
2 曖昧な言語表現が許容される。(言葉によらないコミュニケーションが同時に進行し補完的に作用する)
3 責任の所在は特に取り決めによらない。組織内部で自ずと了解されている。
4 合意事項を文書化することが、それほど重視されない。
5 情意考課。(評判に基づく人事評価)
6 通常、集団の和が重んじられる。
7 クレームに対し、まずは謝り、事実関係は後で説明する傾向がある。
8 特に目上の人物の話を遮るのは失礼とみなされる。
9 物事の決定に感情が挟まることがある。
10 沈黙に対して特に居心地の悪さを感じない。(沈黙していても意思を通わせることは可能)

対して、ローコンテクストとは、

1 絶対的な価値基準を持つ。(黒/白、善/悪)
2 明確な言語表現が求められる。
3 責任の所在は契約によって決まる。
4 合意内容は文書化され保存される。
5 業績考課。(成果に基づく人事評価)
6 個人主義が尊ばれる。
7 クレームを受けた場合、弁解・弁明をする傾向がある。
8 議論が本題から外れそうになった時など、適当なタイミングで話を遮ることも許される。
9 論理的に物事を決定することが理解される。
10 沈黙は気まずさを生む。(沈黙はコミュニケーションの一時的な断絶を意味する)

これは、1960~1970年代に、ホールが考案した概念である。

コミュニケーションの手段は、主に言葉だった。

 

いま、コミュニケーションの手段が多様化し、グローバリゼーションの流れの中で、互いの文化が交わる機会が増え、かつてほどはハイコンテクスト、ローコンテクストが明確にわかれているわけではなくなっているような気がする。ローコンテクストと言われる国の人々も、言葉以外の発信手段を多用する。

 

言葉以外のコミュニケーションの手段が、異なる文化への理解やつながりを促しているということはないだろうか。

 

先日のCOP26での若者たちの活動も、国境を越えてつながっていた。
異文化の若者同士の交流が増えれば増えるほど、彼らが大人になったときに互いの文化への理解は深まるように思う。

 

世代が変わり、世界が変わる。
そうして、今が作られてきたのだなぁ、と思う。

 

私の祖母の時代、大正時代は、「この人があなたのお婿さんよ」と言われた男性と、翌日に結婚式をあげていた。それが、特別なことではなく、結婚というのはそういうものだった時代。若い男女が出会うきっかけそのものが、そう多くはなかった。

 

昭和の時代は、文通だ。手紙が安上がりなコミュニケーション手段だった。翌日配達なんてなかったと思う。もちろん「即レス」、なんてあるわけがない。毎日ポストを覗いて、返事が来るのを何日も待つ。そういう時代。

 

平成の時代にはインターネットが普及し、Z世代は生まれた時からスマートフォンが身近にある世代。
コミュニケーションの手段が変わることで、文化も変わる。

 

ハイコンテクストとローコンテクストは、どちらが「良い」とか「悪い」とか言う事ではなく、自分とは違うコミュニケーションをする人がいるという事を理解することが大事、と言われる。
でも、コミュニケーションの手段が多様化し、そもそも、「異なるコミュニケーション」に触れることが増えることで、お互いの文化への理解も変わってきている気がする。

 

とはいえ、いつの時代も、どこの世界でも、自分とは異なる価値を持っている人がいる、という事を心に留めておくことが大事だろう。

 

同じ日本にいても、「昭和世代」と「Z世代」の違いがある。「同じ日本人」と思って、自分の価値観だけで会話をすると、会話にならない。
世の中がハイコンテクスト化するというのは、それだけ想像力が必要とされる。
そして、それは人間の本質なのではないだろうか。 

 

文字や言葉になっていないと理解できない、ではなく、あらゆる周辺情報から相手の言わんとすることを察する力。

どんな時代でも、それは求められることのように思う。

 

言葉にしないと伝わらない、という言い方があるけれど、

言葉がなくても分かり合える、という言い方もある。

 

コミュニケーションは、言葉だけでない。

言葉は、大事だけどツールだ。

言葉以外のコミュニケーション手段を多用する世代は、それだけ察する力が磨かれて、また新しい世界を作っていくのかもしれないな、なんて思った。

 

世界が、相手を察する想いに溢れたら、もっと優しい地球になるのかな、なんて思った。

そうなったらいいな、なんて思った。