数学する人生 岡潔
森田真生編
新潮社
2016年2月20日 発行
森田真生さんが、岡潔の軌跡をまとめた本、という感じだろうか。
序と結が森田さんの言葉で、メインは岡潔の様々なエッセイや講演をまとめたもの。
序 いま、岡潔を読むということ
一 最終講義
二 学んだ日々
三 情緒とはなにか
四 数学と人生
結 新しい時代の読者にむけて
先日読んだ、『数学する身体』も、多くは岡潔に関する記述だったが、本書はまさに岡潔の言葉を、現代の人々に伝えるための一冊、という感じ。
岡潔の書籍に出合い、森田さんが岡潔の何に惹かれて、文系から数学者の道へ進んだのかが語られる。
岡潔に関しては、高瀬正仁の『岡潔 数学の詩人 』(岩波新書) に詳しいらしいが、森田さんの視点で編纂されたのが本書。
「一 最終講義」というのは、京都産業大学の教養科目として1969年に開講された岡潔による講義「日本民族」の173回講義の録音テープをもとに、森田さんが編纂した文章。
二から四は、岡潔の執筆、文化勲章受賞をうけて妻みつが書いたもの、等から構成される。
岡潔が、数学者であり、仏教の人でもあったことが理解できる一冊。
唯物主義、個人主義、東洋と西洋、「ラプラスの魔」、道元禅師、芭蕉、ピカソ、夏目漱石、良寛、星の王子様、中尊寺、法隆寺、パリでの生活、多変数解析関数論、広島での生活、情緒。。。。
キーワードを並べただけでも、思想家であったのだということを感じられる。
岡潔の言葉は、吉本隆明さんのことばを連想させる。
岡潔が1901年生まれ。
吉本隆明さんが、1924年生まれ。
だいぶ世代はちがうのだけれど、20歳を過ぎて終戦を迎えたという点で、世の中の価値観の大変換を大人として経験したということが共通している。
岡潔は、終戦の後、広島の地で本格的な念仏修行に取り組む。戦時中は戦地の同胞と運命を共にする覚悟で研究に向かったものの、日本が終戦を迎えると、それまで「死ねばもろとも」と誓い合っていた同胞たちが、醜い食料の奪い合いを始めたのが、耐えられなかった。
人の心はすさみ果て、それを見ていられなくなった。自分の研究に閉じこもるという逃避の仕方すら出来なくなって、救いを求めるようになった。
「生きるに生きられず、死ぬに死ねない」気持ち。そして、仏教の門をたたいたという。
岡潔は、宗教を「ある、ない、の問題ではなく、いる、いらないの問題だと思う。」と言っている。
宗教と理性とは世界が異なっていると分かったうえで、岡潔には宗教が必要だった。
なるほどなぁ、と思った。
岡潔の言葉は、ハッとさせられるものがたくさんある。
三 情緒とはなにか、のなかで「関心を持つ」という事について語られる。
関心を持つというのは、それを自分のモノにしたい、と言う気持ちの表れである、と。
物理的に実体のあるモノ;綺麗なハンドバックのようなものであれ、実体のないモノ;宗教のようなものであれ、自分のモノにしたいとおもうのが関心を持つという事であるという。
そして、その関心の対象と言うのは、実体の有無とは別に、
社会心、自然界心、法界心があり、それぞれ、社会心、自然界心、法界心の順で広くなる。
社会心というのは、社会的関心。名誉心やブツ欲のような関心。自他の別のある社会。
自然界というのは、時空の枠のある世界。理性の働くところも、観念の言い表せるところ皆、自然界。景色や自然に心を奪われる感じ。そして多くは、一つ二つ、と数えられるもの。
法界というのは、ここからは次元が違う。なかなか関心を持てなくなる世界。存在の世界。禅の言葉で言うと「法」となる。
岡潔の表現によればん、社会心・自然界心が仮想界で、法界心が実相界。
心を全法界に広げていないと、注意が全体にいきわたることがない、という。
戦争を振り返り、「軍部は井の中の蛙で、法界心というものが見えていなかった」と断じる。
「こういう人たちは、少し禅でもしたらどうであろう」と。
岡潔と吉本隆明の共通点は、同じような見方で戦争へと突き進んだ軍を正面から否定するところに根ざしているのかもしれない。
岡潔は、「情緒というのはもともと定義のない言葉だ」といいつつも、人間が生きる上で、情緒が大事だという。情緒は心の一片であり、それを濁してはいけない。情緒は、人を恨むと濁ってしまう。そんなことをしてはいけないのだと。
随所に、みずみずしい言葉があふれている。
道元禅師や芭蕉の言葉をひきながら、なんとか「情緒」という言葉に内容を与えていこうとする岡の挑戦なのだと、森田さんは語る。
”「情緒」を言葉で「理解」しようとする試みは容易には成功しない。なぜなら、情緒は概念ではなく実感であり、理解されるべきものである以上に、「体得」されなければならないものだからである」”
岡潔の言葉をかみ砕いて、森田さんはそのように表現している。
「体得」するというのは、身をもって経験して、感じるという事。
人の痛みを本当に心から共感して痛いと感じること。それも一つの体得。
岡潔は、何かを理解するときの順番は、
信解→情解→知解
だという。
信解というのは、美しい絵を見た時に、考えることなく心でまっすぐ美しいと感じる理解。
情解というのは、その絵に美しいと感じたものと同じような情景が思い出せるような心の理解。
知解というのは、その絵がなぜそのような信解、情解をもたらすのかを理性も手伝って知識でする理解。
という感じだ。
美術館で絵をみる楽しみは、信解→情解→知解だけれど、教科書で学ぶ絵は、逆向きなのだ。
ただ、あまりに超越しているのは、知解→情解→信解となることもある、という。
面白い表現。わかりやすい。
知解だけでは、情緒は動かない。
「情の働きがなければ、知的にわかるということもありません」と岡潔はいう。
だから、情を、情緒をきれいにすることが大事なのだと。
情と情緒の違いは、本書の中で何か所もで触れられている。
木と葉っぱの関係、と言ったらいいのかもしれない。
上手く伝えられないので、あえてここで文字に表現するのはやめておく。
面白い本だった。
数学は情緒。
なるほどなぁ。
「情の働きがなければ、知的にわかるということもない。」とは。
知識だけでは、わかったことにならない。
情が動かされて、初めてわかったことになる。
情が動かされない勉強は、楽しくないわけだ。
分かったわけではないから。
面白い本だった。
読書は楽しい。