「知の巨人」が暴く 世界の常識はウソばかり
副島隆彦
佐藤優
ビジネス社
2022年2月11日 第1刷発行
図書館の棚で目に入った。2022年の佐藤さんの本だけど、知らなかった本。借りてみた。
著者のひとり、副島隆彦さんは、1953年福岡市生まれ。早稲田大学法学部卒業。外資系銀行員、予備校講師、常葉学園大学教授などを経て、政治思想、法制度論、経済分析、社会時評などの分野で、評論家として活動。副島国家戦略研究所 (SNSI)を主催し、日本初の民間人国家戦略家として、巨大な真実を冷酷に暴く研究、執筆、講演活動を精力的に行っている。
う~~ん、多分、これまで 読んだことないかなぁ。
本書を読んだ後に、本屋さんにいったら、副島隆彦さんの本がいっぱい目についた。これまで、私が意識しなかっただけみたい。
佐藤さんいわく、
”私は、ほんものの「知の巨人」は副島氏であると昔からおもっている”と。
表紙裏には、佐藤さんの言葉。
”本書で批判の対象となっているのは、米中ロの地政学、戦後日本のリベラリズム、日本共産党のスターリン主義などを含め、現代の「支配的な思想」である。こういう思想が普及することによって利益を得る集団があるということだ。
私と副島氏は1848年にマルクスとエンゲルスが行った作業を、2022年の日本で少しだけ形を変えて行なっているにすぎないのである。”
裏表紙の内側には、副島さんのの言葉。
”私が、この30年間抱えてきた学問研究上の疑問の苦悩を佐藤優に一つ一つ問いかけて、「そうですよ」「そうですよ」と頷き(合意)をもらえたことが大きい。
日本国におけるヨーロッパ近代学問(これがサイエンス P 217の表)受容上の数々の大誤りが本書で訂正されていった。このことは日本における学問と思想の大きな前進である。”
本書の中では、佐藤さんと真っ向から対立する副島さんの意見がたくさんでてくる。佐藤さんが1960年生まれだから、世代的には副島さんが年上なわけだけれど、二人の対話は、反対の意見ながらも建設的に進むので面白い。もちろん、「そうだそうだ」と二人で合意し合う場面も。副島さんの意見に、佐藤さんが「それは違う」という場面、あるいは立場が逆の場面もあるわけで、なかなか刺激的な一冊だった。
副島さんというのは、個性的な?というのか、世間でいう「あたりまえ」を簡単には受けれない、自分の思考の原理原則がかなり一般的ではない方の様だ。だから、対談が面白い。
目次
第1章 世界の潮流を読む
第2章 戦後リベラルの正体
第3章 米中ロの世界戦略と日本の未来
第4章 ディープ・テイストの闇
第5章 間違いだらけの世界超常識
副島さんが、巷でベストセラーを出している作家を「信用がならない」とか、「ただの共産主義だ」とか、ばっさばっさと切り捨てるから面白い。
最初に、斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』(集英社新書)の話題がでてくる。佐藤さんは、斎藤さんのことを「新たな左派の理論的リーダーの誕生」と評価し、副島さんは、「考えていることに違和感があって、こんな新人類とはつきあいたくない」と評価する。
なかなか、楽しい会話。
『人新世の「資本論」』は、読む人によって感想は様々で、私自身、とある勉強会で、ある人がけちょんけちょんに言って、あるひとがすばらしいといって、なんだか場がしー-ん、として、ありゃりゃ、、、となった経験がある。
個人的には、私は『人新世の「資本論」』は、なかなか面白いとおもった。ただ、「脱成長」という言葉には賛同しない。「成長」の方向性が、従来のような物を求める豊かさへの成長ではないというだけで、「脱成長」も「低成長」も、私は社会がめざすべき言葉ではないと思っている。
と、私自身、違和感を感じる所もあった本なので、しょっぱなからこれは面白いかも、という感じで読み進めた。
副島さんには斎藤さんがどうも日本共産党に近い人と感じるらしい。
また、副島さんは、『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ)の著者マルクス・ガブリエルについてもやや批判的。人間を大事にする人権至上主義をさらに極端にした政治思想で、突き詰めると、地球環境を守るためには、人類が滅ぶのが一番だという考え方になる、と言っている。『サピエンス全史』(河出書房新社)のユヴァル・ノア・ハラリについても同様の傾向がある、と。副島さんは、エマニュエル・トッドやトマス・ピケティについても、たいしたことはない、、と言っている。
『なぜ世界は存在しないのか』は、私にはさっぱりわからん、、、って感じだった。
『エマニュエル・トッドの思考地図』は、いかにして自分は世界の流れを予測してきたかということがとうとうと語られているが、私には、、、たいして面白くなかった。
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佐藤さんは、斎藤さんについては、市民がコモン(共有財)の主導権を握るという考え方で、市民社会的マルクス主義の流れであり、新たに出てきた若い学者にたいして目くじらをたてるのはよくないと思う、と、副島さんに言っている。
マルクス・ガブリエルについては、アナーキズムの流れで、人をあまり好きではないのだろう、と。ユヴァル・ノア・ハラリは、言っていることが順接なのか逆説なのかわかりにくく、両義的に言い、「おまえ、どっちなのかハッキリしろ」というはなしになる、と。
マルクス・ガブリエルやユヴァル・ノア・ハラリについて、なんとなく私自身が感じていた違和感が、言葉になっていて、なるほど、と頷いてしまった。
ハラリの本の読みづらさは、翻訳のせいかとおもっていたけれど、もともと、両義的なことが延々と述べられていたからだと思うと、納得する。
第2章では、戦後リベラルの正体として、日本共産党について語られている。お二人とも、日本共産党には否定的。特に、佐藤さんは、革命を起こそうとしている危険分子として、以前から強く否定している。「革命は人を不幸にするので、漸進的な方法で変化したほうがいい」と言っている。革命は、その国の社会が停滞して成長しないし、人々が大混乱に陥る。たしかに、急激な変化は、絶対にその反動がある。会社組織の急激な変化も、結局揺り戻しが大きくなるのと、一緒かもしれない。
日本の共産主義の歴史について、1930年代前半にマルクス主義や社会主義者の間でおきた日本資本主義がどのような段階にあるかの論争「日本資本主義論争」で講座派と労農派にわかれたことについて、説明されている。
講座派:当時の日本共産党の考え。当時の日本は、ヨーロッパでのブルジョワ革命に相当する革命が未だ起こっていない「特殊な国」であると考えた。だから、天皇制を打倒する市民革命を起こし、普通の資本主義国になって、その後に社会革命を起こすべきという、二段階革命論を唱えた。
労農派:非日本共産党派。日本はすでに資本主義になっていると考えた。三井、三池などの財閥を打倒すれば、社会主義革命は成立すると考えた。どちらも、革命にこだわっているところが、人を不幸に陥れる危険をはらんでいるということ。
田辺元の「悪魔の京大講義」が語られる。若者よ、命をかけて戦争にいけ、という講義。そして、多くの学徒兵が命を落とした・・・。
また、久野収の「市民と庶民は違う」という考え。市民は金持ちで、庶民は金のない人・・・。市民による政治といったときに、貧乏人は含まれない、、、と。
中国共産党については、毛沢東の時代に、ソ連への従属を断ち切った、と説明されている。
毛沢東は「天命が降りた」と考えた。中国独特の政治思想であり、「天命は中国皇帝(天子)になる者が天から降りてくる」と考え、毛沢東は自分が天子と言い切った。
第2章の締めくくりは、「新左翼運動の悲劇は繰り返すべきではない」と。佐藤さんの言葉をそのまま引用すると、
”怖いのは、誰も左翼の活動のことをよく知らないまま、再び左翼思想が注目される時代となり、人々が無自覚的に時代の波に飲み込まれてしまうことです。そうなると、かつての左翼たちが犯してきた、様々な誤りや悲劇が繰り返されることになります。”
と。
歴史を理解するって、大事だ。
第3章でも引き続き、「革命」の否定。佐藤さんが、斎藤さんの『人新世の「資本論」』から、「3.5%の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がれば社会は大きく変わる」という話を引用し、これに対して佐藤さんはYesでもあるしNoでもある、と言っている。
たしかに、3.5%の人が立ち上がれば社会は変わるかもしれない。でも、3.5%の人が立ち上がる環境というのは、国家秩序が破綻している状態である、と。だから、日本ではありえないだろう、ということ。
なるほどなぁ。と思った。3.5%の人の活動が変革をおこすのは、その環境がすでに破綻しているうえでの活動のときだ、、、と。
会社の中の変革も、同じこと・・・。ぬるま湯の環境だと、破綻しているとは思わないから、現状維持がつづいてしまう。。そして、ある日本当に破綻・・・。
第4章のディープテイストとは、裏に隠れている政府を動かす力の事。大経済学者ジョン・メナード・ケインズの言葉が引用されている。
「社会の存続基盤を転覆する上で、通貨を堕落すること以上に巧妙で確実な方法はない。」
お金を動かしている組織が、ディープテイストの一つ、、ということ。
第5章では、 著者の二人が考える常識が色々と説明されている。それが色々と面白い。副島さんが提案する自論に、佐藤さんが、うんうん、と頷く感じ。
「この世は物質と霊魂(思考)でできている」という二元論の考えを、様々な哲学者がつかった言葉でまとめられている。アリストテレスなら「Hyle(ヒューレ)とeidos(エイドス)」、デカルトなら「materielとl'espri(エスプリ)=spirit」など。現代の英語では、「matterとmind」となる。
デカルトの「我思う、故に我あり」は、「私は思考することでここに存在している。生きている。実存している。」と大きく宣言し、神が私を作ったのではない、と。だから、デカルトは、スウェーデンのイエズス会の司祭にヒ素で毒殺されてしまった・・・。
アリストテレスの学問体系まとめへの説明が、とてもわかりやすい。
1巻: 論理学 (Logica)
2巻: 物理学(×自然学) (Physica)
3巻: 全学問土台学(×形而上学) (Meta-physica)
4巻: 倫理学 (Ethica)
5巻: 政治学 (Politica)
6巻: 修辞学・詩学 (Rhetorica)
7巻: その他 (Fragments and Reference)
8巻: 偽書及び論争がある書 (Spurious and Disputed)
2巻は、自然学ではなく、物理学とするべきだし、3巻は形而上学ではなく、全学問土台学とするべきだ、と。
Meta-physicaのMetaは、understandで「下に立つもの」であり、下から支えている学問がメタフィジカ。
物理を作っている土台がメタフィジカ、ということ。副島さんは、形而上学なんて、わかりにくい言葉に訳したのが失敗だ、と。
そして、副島さんが考える学問の体系では、最上位は神学であるという。だから、神学者の佐藤さんとの対話は、楽しいのだろう。
Ⅰ: 神学(Theology)。哲学、数学、この2つは神学の下女、婢である。
Ⅱ: 学問(Science)。 自然科学(物理学、化学、生物学、生理学、医学)、社会科学(社会学、経済学、政治学、心理学)
Ⅲ: 人文(Humanities)。 下等学問(初級学問)である。 人類の過去の文献を扱うこと=Liberal arts。これがいわゆる日本の「文学部」。人文とは、元々、生活の知恵。および古文書や石碑を解読すること。従って、歴史学は人文である。サイエンスではない。言語学もここ。
これが、最初の副島さんの言葉に出てきた(P.217 )の表だ。
学問のトップが神学であり、そこに哲学・数学があるといのは、この歳になるとよくわかる。岡潔さんのような数学者が語り出すと、哲学になるのは、そういうことなんだ、、、と思う。
なかなか刺激的な二人の対話だった。
環境問題や、格差問題についてなど、今ちまたで起きている動きは、「みんなで貧乏になろう」と言っていることに近い、と。高所得者からの低所得者への資産の分配は、税金という形ですでに行われており、重要なのは中間層の底上げであるのだ、と。みんなで成長をあきらめて貧乏になろう、というのは違うだろう、って。
なるほど。
ぱっと読むと、えぇ??ッと思うようなことでも、じっくり自分の頭で考えてみると、そうかな、と思えることがたくさん。
頭の体操に良い本だった。
二人の意見をうのみするのではなく、考えながら読むのに楽しい本。
ピケティやハラリを絶賛する人に、読んでもらいたい。
こういう意見もあるよ、ってね。