原田マハさんの『異邦人 いりびと』を読んでいて、一つ、すごく印象的だったセリフがある。
主人公の菜穂(2011年3月の震災のあと、妊婦だったために、一人で東京から京都に避難中)が、自分の知らないところで実家(東京)の美術館の所蔵品であったモネの「睡蓮」が、売られてしまった。夫、一輝の実家である画廊の経営難を救うためだった。菜穂は、その「睡蓮」が大のお気に入りで、たとえ美術館がリーマンショックの影響で経営難になっていた時でも、絶対に売るのを承知しなかった。そんな「睡蓮」を、副館長である自分の承諾なしに、両親が売ってしまった。それを嘆いていたのである。
それを、京都でお世話になっている家の主人、せん(書道家・菜穂の祖父の書道の先生・京都の著名人)に打ち明けた際にいわれたことば。
ご高齢のご婦人の、何の迷いも無い言葉。
「そうどしたか。
あんさんの気持ちは、ようわかります。
せやけどなぁ、その『睡蓮』は、もともと、あんさんのもんやなかったん違いますか。
いままでも、これからも、誰のもんにもならへんのと違いますか」
芸術家の創った作品は永遠の時を生きる。。。
あぁ、そうだ。
その通りだ。
誰のものでもない。
ただ、その人の作品。
人は、時々、何かを自分の所有物と勘違いして、手に入れたと喜んだり、失ったと嘆いたりする。
でも、そもそも、誰のものでもない。
そういうもの、たくさんある気がする。
本書を読んでいて、一番強く印象に残った言葉だった。
「誰のもんにもならへん」
領土も誰のものでもない。
海も誰のものでもない。
ただ、地球という自然の一部であるだけだ。
所有したと思うから、失うことが辛くなる。
経済行動学でも、損失に対する痛みの方が、入手できない痛みより大きいと言われている。
買えなかった2000円のチケットより、買ったのに落とした2000円のチケットの方が辛く感じる。
たとえ、お金を出して購入したものだったとしても、最初から、所有しているわけではなく、今一緒にあるだけなんだと思えばいい。
そして、一緒にあることに感謝すればいい。
と、そんなことを思った。
とはいえ、お気に入りのものを失うとやはり悲しいけど。
子供が、自分のおもちゃをお友達に貸してあげられるようになったら、成長したって言われる。
大人は?
大人も同じではないだろうか。
人とモノでもサービスでも、想いでも、シェアできる人は、人間として豊かだったりするのではないだろうか。
手放すって、大事だなと思った。
プライドも、適度に手放した方がいい。
所有しているというのも、幻想なんだな。
人は、何も所有なんかできない。
自分の身体と、スキルと、思考と、それしかない。
どれだけ知識を詰め込んでも、それを使わないのであれば自己満足でしかない。
知識も、誰かとシェアすることで、もっと世界が広がるかもしれない。
誰かとシェアすることで、それは違うよ、と指摘してもらえるかもしれない。
思い込み、プライド。
自分のモノとおもっているモノ。
そういうの手放すと、もっと楽になる気がする。
ま、そこそこ楽に生きているけど。
それでも、なんだか、心に刺さるひとことだった。
「誰のもんにもならへん」
自分の人生も、誰のもんにもならへん。
自分の人生は、自分で考えて、自分で決める。