『民族とナショナリズム 』 by アーネスト・ゲルナー

民族とナショナリズム
アーネスト・ゲルナー
加藤節 監訳
岩波書店
2000年12月22日 第一刷発行
原書:Nations ans Nationalism (1983) Ernest Gellner


気になっていた名著『民族とナショナリズム』に手を出してみた。2000年の全訳から改訂版は出ていないようなので、とりあえず、図書館で借りてみた。

 

感想。
う~~~~ん。。。。難解だ。撃沈、、、って感じ。原文の表現どおりに訳されているのか、日本語としても読みずらい。難解。。。主語と述語の関係がスッと頭にはいってこないことと、否定の否定のような表現が多くて、で??どういうこと???っていう文章がおおくて、一度読んだだけではさっぱりわからん、って感じだった。

 

先日、『マッキンダー地政学』を借りて読んだのだが、それも一回読んだだけでは理解できなかった。でもこれは、手元に置いておきたい本だと思って、結局、購入した。いま、2度目を読んでいる。そんなさなか、更に難解な『民族とナショナリズム』に手をだしてしまった。今回は借りた本なので図書館に返すけど、いますぐ購入しようという気にならない。たぶん、今の私の基礎知識では、積読になるだけの気がするから。民族、社会学は、まだまだ、、、基礎が無さ過ぎる。いや、これが基礎の教科書なのかもしれないけれど、現在の社会をもっと理解しないと、本書の本当の意味が理解できないような気がした。
ざー-っと、2回、眼を通してみて、言っていることはシンプルそうな感じがしている。だから、名著なのだろう。私の単純な理解の一つは、ナショナリズムを大事にする人とそうでない人がいる。それは、教育によるものが大きい、ということのようだ。

 

岩波書店の紹介文を引用すると、
”近代世界の形成に大きな役割を果たしながら,これまで十分理解されてこなかった民族問題.「ナショナリズムとは何か」という難問に,英国哲学界の巨人ゲルナーが,政治社会学社会人類学などの該博な知識を駆使して解明を試みる.「第1級のナショナリズム研究書」と高く評価されてきた名著,待望の全訳.”

 

実際の訳者は4人いて、成蹊大学アジア太平洋研究センター内の「20世紀の社会科学における『西欧と非西欧』」の研究成果の一部だそうだ。


著者のアーネスト・ゲルナーは、1925年パリ生まれ。プラハで育ち、家族とともにイギリスに移住。オックスフォード大学を卒業後、エディンバラ大学を経て、1962年、ロンドン大学の哲学教授に就任。ケンブリッジ大学社会人類学教授、中央ヨーロッパ大学ナショナリズム研究センター所長等を歴任。1995年、急逝。哲学、政治社会学社会人類学、といった幅広い領域にわたって大きな足跡を残した20世紀を代表する知識人の一人。

 

ほんとにちょっとだけ、私の理解の中での覚書。読み直したら、理解が変わるかもしれないけれど。。。

 

そもそも、ナショナリズムというのは、それに取りつかれている人と、取り付かれていない人がいる。近代世界の形成にナショナリズムが果たした力は明白であるにもかかわらず、人によって、気にしたり、気にしなかったり。その本質は何なのか?の難題に迫ったのが本書。

 

目次が本書の概要を掴むのに、一番役立つかもしれない。
最後に、要約、というページもあるのだけれど、要約が要約とは思えない、、、のが本書が難解な理由か??

 

目次
第一章 定義
 国家と民族
 民族
第二章 農耕社会における文化
 農耕ー識字政治体における権力と文化
 文化
 農耕社会における国家
 農耕社会の支配者の種類
第三章 産業社会
 永続的成長の社会
 社会遺伝学
 普遍的高文化の時代 
第四章 ナショナリズムの時代への移行
 ナショナリズムの弱さについてのノート
 野生文化と園芸文化
第五章 民族とは何か
 真のナショナリズムの歩みは決して順調ではなかった
第六章 産業社会における社会的エントロピーと平等
 エントロピーへの障害
 亀裂と障壁
 様々な焦点
第七章 ナショナリズムの類型
 ナショナリズムの体験の多様性
 ディアスポラナショナリズム
第八章 ナショナリズムの将来
 産業文化 一か多か
第九章 ナショナリズムイデオロギー
 誰がニュルンベルクの側に立つのか
 一つの民族、一つの国家
第十章 結論
 何が語られていないのか
 要約


ざっと目を通してから、最初に第十章 結論をよんでみたのだけれど、結論も分かりにくい。。。

本書に関しては、最初の定義が他の場面で引用されることが多い。
ナショナリズムとは、第一義的には、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないと主張するひとつの政治的原理である。

この一文は、様々な著書などで見かけることがある。

さっと読むと、さらっと流してしまいそうな文であるけれど、 骨は、

ナショナリズムは、政治的原理である」ということ。
言い換えると、政治的原理が必要とされないならば、ナショナリズムも必要ではない、ということ。だから、イデオロギーがあるところに、ナショナリズムがある。

多分、本書の骨の一つは、そこにあるような気がする。

 

なので、農耕社会から産業社会へ変化していくなかで、なぜ人は政治的原理を必要とするようになったのか、その考察をしているのが、本書なのだと思う。かつ、その政治的原理の一つであるナショナリズムについては、声高に叫ぶ人と、自分は関係ないと思う人がいる。そこの差は何によって生じているのか? そこは、読み解ききれなかった。

教育は一つの解ではありそうだけど、それだけでは片づけられない。

 

本書の中で繰り返し出てくる言葉が、

教育
文化
言語
民族

 

農耕社会から産業社会への変遷過程で、読み書きのコミュニケーションが必要になって、文字ができた。同時に紙や筆記用具も開発された。産業社会では、集団は有機的連帯があり、相補的分業が進む。農業をする人、商売をする人、法律を管理する人などなど。。。相互に依存しつつ社会を形成していくには、読み書きの教育が必要になり、国のような機関がそれを提供するようになる。

文字を使うことで、言葉、文化も継承されていき、同じ言葉を使う人々は同じ民族起源をもつと感じるようになる。

 

世界中の言葉の種類は、世界の国の数より圧倒的に多い。
つまり、一つの国であっても、さまざまな言葉が混在しているケースが多いということだ。それはすなわち、民族も混在している。
そして、そこから、ナショナリズムが発生しうる。
そういうこと、のようだ。


日本が単一民族だと発言して非難された政治家がいたが、ある地域でしか暮らしたことが無く、他の地域に興味がなければ、日本は単一民族だと感じるだろう。日本国内では、民族的対立が日常になっている人が圧倒的に少ないので、私たち日本人は単一民だと思いがち、ということもあるかもしれない。

 

そして、第四章にある、「野生文化と園芸文化」というのが面白い考え方。野生文化と言うのは、持って生まれた人間としての自己再生機能。動物的な、生物学的な面での文化。一方で、園芸文化というのは、教育などによってつくられる文化。

ほっておいては、園芸文化はつくられない。
園芸文化は、国が教育によって、意図して作っていく。

 

中国の歴史教育、韓国の歴史教育の一部は、まさに園芸文化で作り上げる反日文化かもしれない。

 

そう考えると、文科省の指導要綱は、日本の文化を作るうえでの指針、ということになる。とてつもなく重要であるが、その変遷を常に注視している人のなんと少ないことか。
肌感覚で、「教育が国をつくる」というのは、なんとなくわかる。日本の未来ビジョンのような話題になると、必ず教育の重要性が謳われる。そこは多分反論はなく、問題はどういう教育をするのか、ということだ。

 

そういえば、なんでも、文科省は、国語を「論理国語」と「文学国語」に分けたらしいが、私には、さっぱり意図がわからん。文学抜きの国語なんて存在しうるか??文学を失うというのは、文化を失うことではないのか???でも、こうして国の教育指針をかえるというのは、日本の文化にかかわることだ。
ちょっと、怖い気がする。

 

ゲルナーによれば、産業社会で教育が重要となると、社会秩序の土台に立っているのは死刑執行人(農耕社会での聖職者や支配者)ではなく、大学の教授なのだという。教育次第で、個人の雇用能力、尊厳、安寧、自尊心ということが決まっていく。受けた教育としての文化の限界が、人々の道徳的、職業的限界となる、ということ。

今の日本でいえば、大学の教授が厚労省の役人に置き換わってしまっているということか??それで、いいのだろうか??なんか、ものすごく危うさを感じる。

また、更にいけば、剣よりも教授よりも、会計事務所の方が力を持つようになる、と。

 

本書の中で、時々、日本の変遷についても言及されているのだが、1983年出版の本なので、日本は成功パターンであるかのような印象をうける。だいぶ、変わってしまったように思う。。。

 

本書の中では、マックス・ウェーバーデイヴィッド・ヒューム、カント、マルクストクヴィルデュルケーム等への言及も多い。彼等の基本的思想が頭に入っていないと、読み進み難い。

 

第七章 ナショナリズムの類型に出てくる、「ディアスポラ」という言葉の意味がわからなかった。

ディアスポラ(diaspora)とは、自発的または強制的に故地から離散した状態のことで、パレスチナから離散したユダヤ人のような人たちのこと。
国ではないけど、ナショナリズムになりえる形のこと、ということのようだ。

 

ルサンチマン、もたびたび出てくる。社会の格差が広がれば、ルサンチマンが引き起こされやすくなる。

ルサンチマン (ressentiment): 怨恨、遺恨、復讐感情。 特に、ニーチェの用語で、弱者の強者に対する憎悪をみたそうとする復讐心が、内攻的に鬱積した心理をいう。 キリスト教の道徳、社会主義運動などのなかにこの心理があるとされる。

 

歴史的なオムレツ作り」という表現もでてきた。これは、何か大きなことをするには、犠牲も必要ということだが、国によってとらえられ方は様々。勇気をもって取り組め、と言う場合と、犠牲が出るのはやむなし、という残酷なとらえ方と。

本書では、

「・・・そのためにはいくつかの戦闘と、かなりの持続的な外交努力とが必要であったが、歴史的なオムレツ作りと言う点から言えば、過度の、あるいは異常な数の卵を割る必要はなく、おそらく一般的な政治的枠組みと時間の経過との中で行われる通常の政治ゲームの過程で、いずれにせよ割らなければならなかった数を超えることは無かったであろう。」

 

とまぁ、この一文を抜粋しただけで、この本の読みにくさは感じていただけただろうか、、、、。

 

中身の理解は、まったく浅いのだけれど、とりあえず、本書の雰囲気がわかったのが今回の収穫としよう。。。

 

もう少し、新しいナショナリズムに関する本を読んでから、読み直してみよう。

 

わからないなりに、達成感。

難しいということが、わかった。

 

 

『民族とナショナリズム