禅の言葉:恨みに報いるに恨みをもってしたならばついに恨みのやむことはない。恨みをすててこそやむ。

今朝のZoom坐禅会で教えていただいた禅の言葉。

 

終戦の日を過ぎたところなので、、、、ということで、いつもとはちょっと違うお話をいただいた。

敗戦後日本を勇気づけた「ダンマパダ」法句経(真理のことば)”の紹介。


恨みに報いるに恨みをもってしたならばついに恨みのやむことはない。恨みをすててこそやむ。これは永遠の真理である。


これは、お釈迦様の言葉である「ダンマパダ」の中にある言葉。

なぜ、この言葉を紹介いただいたかという背景は、次の通り。

 

この言葉は、昭和26年サンフランシスコ対日講和会議で、一部戦勝国、つまり今のロシアが日本分割論を強硬に主張して紛糾した中で、セイロン(現在のスリランカ)代表として出席したジャヤワルダ氏が演説の中で引用した。

 

彼は、
「軍隊の駐留による被害や、我が国の重要産品である生ゴムの大量採取による損害は当然賠償されるべきである。しかし、我が国はその権利を行使するつもりはない。なぜなら、仏陀『人はただ、愛によってのみ憎しみを超えられる、人は、憎しみによっては、憎しみを超えられない』との言葉を信じるからである。」と語った。

そしてセイロンは、日本に対する賠償請求権を放棄し、日本は真に自由で独立した国家でなければならないと、参加国に寛容の精神を求めた

 

日本の全権の吉田茂は演説後、涙を浮かべてジャヤワルダ氏に感謝し、ジャヤワルダ氏は「アジア随一の外交官」との国際的賛辞を得て外交舞台で時の人になったという。

 

「恨みに報いるに恨みをもってしたならばついに恨みのやむことはない。恨みをすててこそやむ。これは永遠の真理である。」というのは、法句経(ほっくぎょう)、「ダンマパダ」(「真理のことば」)の一節であり、日本人の心に響いたのだという。

いや、日本人じゃなくたって、日本のような敗戦国が聞いたら涙がでるだろう、、、。

 

ダンマパダは、お釈迦様の言葉そのものであり、念仏のように何かの宗教によって伝えられたものではなく、仏教も禅も含めての原点のようなもの。だから、多くの人の心に響いたのだろう、と。事実、その言葉があったからこそ、日本は今の日本になっている。北方領土と言う問題は、今なお解決の兆しがないけれど、、、。

 

ジャヤワルダナ氏は後に首相・大統領に就任し、7回来日し、鎌倉長谷の大仏殿に顕彰碑があるほか、日本の各地に交流の跡を残しているそうだ。スリランカと日本に、そのような関係があったとは、まったく知らなかった。。。ちなみに、今は財政難から大混乱中のスリランカだけれど、日本は中国・インドと同様、スリランカには相当の資金を提供している。戦後からの関係があったのだということに、気が付かされた。


ジャヤワルダナ氏のことは知らなかったし、鎌倉の大仏は、何度も訪れたことがあるけれど、顕彰碑に気が付いたことがなかった。今度行ったら、探してみようと思う。

ちなみに、長谷の大仏の正式名称は、鎌倉大仏殿高徳院。浄土宗の仏教寺院ではあるけれど、宗派を問わず、多くの人がおとずれる。

 

仏教の中に念仏があるように、禅では般若心経をとなえる。般若心経はお釈迦様が亡くなってからずっと後に作られたもの。坐禅の前には、般若心経をとなえるのが一般的。今朝のような在家禅のZoom坐禅会の集まりでは省いてしまうけれど。

師匠曰く、般若心経も念仏も、意味なんか分からなくてもとなえることが大事なのだと。となえているうちは、他のことを考えないからかもしれない。わたしは、覚えているわけではないので、般若心経を空でとなえるなんて、とてもじゃないができないけど。

 

そして、今朝は、もう一つ、紹介いただいた。

なんどもでてくるけれど、
「おのれこそ、おのれのよるべ おのれをおきて、だれによるべぞ よくととのえし、おのれにこそ まことえがたき、よるべをぞえん」

やはり、自分なんだよね。

 

先日、何かで目にして、ふと、覚書した言葉がある。
医師・日野原重明さんの言葉。
”ゆるすのは、相手のためではなく、自分のための行為なのです。
ゆるせない気持ちを持ち続けるのは、しんどいことです。
ゆるすことで、私たちは楽になれるのです。”
と。

日野原さんも、仏様のような人だな、、、と、つくづく思う。

 

頭でわかっていても、心がついていかないときは、

念仏のように唱えてみるといいかもしれない。

”ゆるすことで、私たちは楽になれるのです。ゆるす。ゆるす。ゆるす。”

 

誰かをうらんでる暇があったら、自分のことを考えよう。

自分を幸せにできるのは、自分しかいない。