『〈叱る依存〉が止まらない』 by  村中直人

〈叱る依存が〉止まらない
村中直人
紀伊国屋書店
2022年2月17日 第1刷発行
2022年6月17日 第6刷発行


2022年6月4日の日経新聞の書評で紹介されていた本。気になったので、図書館で予約して半年近く。やっと順番が回ってきたので借りて読んでみた。

 

感想。
なるほど、興味深い。面白い。
私には子どもがいないので、日常生活で誰かを「叱る」必要にせまられることは皆無だけれど、なるほど、なるほど、、、面白い。子育て中だったら、きっとすごく参考になると思う。学校の先生もかな。あるいは、会社で部下をもっていてもそうかな。
人間関係に関わる「叱る」について、目からウロコが落ちるかも


著者の村中直人さんは、1977年生まれ。臨床心理士公認心理師。一般社団法人子ども青少年育成支援協会代表理事。ニューロダイバーシティ株式会社代表取締役。人の神経学的な多様性に着目し脳神経由来の異文化相互理解の促進、及び学び方の多様性が尊重される社会を目指して活動。

 

表紙裏には、
”*きつく叱られた経験がないと打たれ弱くなる
*理不尽を我慢することで忍耐強くなる
*苦しまないと人は成長しない
こんなふうに思っている人は要注意!
「叱る」には効果がないってホント?”
と。

だれもが、え?と思うところが少なからずあるのではないだろうか。
とはいっても、指導や、躾は必要でしょ?って。

 

本書の中では、「叱る」ということを明確に定義してくれている。その定義に従えば、「叱る」には百害あって一利なしが、よくわかる。

 

うん、なかなか面白い本だった。

 

目次
 Part 1「叱る」とは何か
1 なぜ人は「叱る」のか
2 「叱る」の科学  内側のメカニズムに目を向ける

 

Part 2 「叱る」に依存する
3 叱らずにいられなくなる人たち
4 「叱らずにいられない」は依存症に似ている
5 虐待・ DV・ ハラスメントとの間にある低くて薄い壁

 

Part3 〈叱る依存〉は社会の病
6 なぜ厳罰主義は根強く支持されるのか?
7 「理不尽に耐える」は美徳なのか?
8 過ちからの立ち直りが許されないのは何故か?

 

 Part 4 〈叱る依存〉におちいらないために
9 「叱る」を手放す


まず、著者は「叱る」ことが社会で求められているということが問題だという。電車やレストランで騒いでいる子供を叱らないと、叱らない親といって叱られる・・・。さもありなん。
「叱らないと、きちんと育たない」と思う人が多いから。

でも、著者は、「叱る」ということには、瞬間的には効果があるように見えても、実際には何の効果もなく、「叱りたい人」の満足を満たしているだけなのだという。あるいは、「叱らない親といって叱られたくない人」の満足を。

おやおや、、、痛い痛い。。。

 

そもそも、「叱る」のは、相手に変わってほしいと思うから。

「勉強する習慣をつけてほしい」

「片づけをちゃんとしてほしい」

「仕事で成果を出してほしい」

「ミスを減らしてほしい」。

つまり「叱る」という行為は、相手を変えるための行為。そもそも、他者に変化を期待しない人は、「叱る」という行為をしない。そういう意味では、「叱れば、人を変えることができる」とおもっているから叱る、ということ

「叱る」を理解する第一歩は、それが「他者を変えようとする手段」であると認識すること。

そして、権力のある人がない人に対して行うのが、「叱る」という行為。逆なら、叱るというより怒る、ってかんじだろう。

 

ここで、「叱る」の定義がでてくる。
辞書によれば、
(目下の者に対して)相手のよくない言動をとがめて、強い態度で責める(大辞林
(目下の者に対して)声を荒立てて欠点をとがめる。とがめ戒める。(広辞苑

つまり、攻撃的な行為で、受け手側のネガティブな感情を発生させ、「他者を変えよう」とすること。

受け手側のネガティブな感情が伴わなければ、「叱る」ではなく「説明する」「説得する」と言い換えることが可能。

 

ということで、本書の中では、
「叱る」ということを
言葉を用いてネガティブな感情体験(恐怖・不安・苦痛・悲しみ)などを与えることで、相手の行動や認識の変化を引き起こし、思うようにコントロールしようとする行為
と定義されている。

「叱る」と「怒る」の違いは、叱る側の感情の違いに過ぎない。「叱る」とは相手に苦しみを与えることで、人を変えようとすること。相手にネガティブ感情を与えるような怒りは「叱る」と同等だともいえる。

なぜ、そういう事が起きるのか。

「苦しまないと人は成長しない」という思い込みが、多くの人の中に存在しているから。

う~ん、確かに、そう思っているかもしれない。

でも、脳科学的には、苦しみは成長を阻害するだけだということがわかってきている。


脳の偏桃体は、強い感情の動きにもっとも重要な部位で、苦痛そのものに反応するのではなく、苦痛が予測されるとき恐怖反応を引き起こすことがわかっている。つまり、防御システムとして危険を察知したときに、危険を脱して生き延びる確立に有利な方法をひきだす反応を引き起こす。「戦うか」「逃げるか」の反応を引き起こす。

そして、この防御システムは、人の「学びや成長」を支えるメカニズムではない、というのが重要なポイント。近年の研究では、偏桃体の過度な活性化は、知的な活動に重要だと考えられている脳の部位(前頭前野)の活動を大きく低下させることが確認されている。

 

「学びや成長」は、防御システムではなく、「欲求」のメカニズムによって、支えられている。ドーパミンなどがでる「報酬系回路」は、報酬そのものより、報酬が期待されるときに働くことがわかっている。防御システムに対して、「冒険システム」とも呼べるメカニズムが、成長を支える。

そして、どうやら、ややこしいことに「他者に苦痛を与えるという行為」そのものが人にとっての「社会的報酬」の一つになっている、というのだ。

 

嫌だなって思った人に対して、「あの人には嫌なことがおこればいい」っておもったことはないだろうか。実際に、自分が手をくだすわけではないけれど、人の不幸を願ってしまう瞬間がゼロの人なんていないだろう。
相手に何が起ころうと、自分とは無関係のはずなのに、「他者に苦痛が起こればいい」と願ってしまうこと、それ自体が報酬を期待している行為ということのようだ。

 

読んでいて、ちょっとドキドキしてしまう。
私は、聖人君子じゃない。根性曲がっているところもあるかもしれない。
でも、人に苦痛を与えるという行為を報酬としているなんて!!!
認めたくないけど、ある、、、かもしれない。

そして、それが実際に行動になれば、目下の者に対してであれば「叱る」という行為になるのだ。

 

サラリーマン時代を振り返って、部下に対して「叱った」ことはなかっただろうか?と思う。たぶん、あった。どうにも覚えの悪い部下に、もうかんべんしてくれ~~とイライラがつのって、冷たく当たったこともあったかもしれない。怒りが口から出そうなのを我慢して、だんまりをすれば、それはそれでパワハラとも言われる時代。
けど、私だって、人間だ。いつでも冷静沈着でいられるわけではない。
叱る、に近い怒り方をしたこともあったと思う。
ごめんなさい。

 

先に、この本を読んでいたら、叱りたくなっている自分は、「自分の欲求を満たそうとしているだけなんだ」とおもって、思いとどまれたかもしれない。
いや、、頭でわかっても、行動にするのは難しいかな。

 

ま、いずれにしても、結構、目からウロコが落ちる感じがした一冊。

 

叱るは、叱る側のニーズを満たすに過ぎない。だから、依存症になる。

 

自分はそうやって叱られて強くなったから、叱って部下を鍛えようとする。
それは、強者の理論だそうだ。
ひとによって、叱られた経験を乗り越えられる人もいれば、乗り越えられない人もいる。自分はそうやって強くなった、という人は、相手も乗り越えられるはず、と思い込む。でも、それは、思い込みに過ぎない。人によって、乗り越えられる物は異なるのだ。根性の問題ではない。ひとによって脳の回路も様々ということだ。

 

これも、頭ではわかっているようで、そういわれると、、、、うん、そうだ。

 

そもそも、日本では、懲罰を求める傾向があるという。先生に「叱ってやってください」といったことのある人は多いだろう。もちろん、「ネガティブ感情を引き起こしてやってください」というつもりでいっているのではないだろうが、「叱る」とか「しつける」とか、とても危険なものをはらんでいるという。

 

ネガティブ感情で偏桃体が過剰に活動すると、学ぼうという意欲事態がわかなくなるのだそうだ。冒険モードを発動できなくしてしまうのだ。
虐待され続けた子どもに学習意欲がわかない子供が多いというのは、意欲をなくせ、なくせ、と言われ続けられたようなものだから。

 

「人は、苦しまなければ、変化・成長できない」というまちがった認識から卒業しよう、というのが、「叱る」依存からの脱却戦略。

 

なかなか、示唆に富んだ良い本だった。

 

叱る自分という立場だけでなく、「叱られている」自分にも参考になる。あぁ、「相手は自分の満足を満たそうとおもっているんだな」と思えば、パワハラ上司のことも冷静にうけとめられるかも?!

 

パワハラ上司というのは、だから相手が痛めば痛むほど、更に痛みを与えようとする。

いじめっ子と一緒だ。自分にとって報酬なんだから。

 

残念ながら、そういう人もいる。

もしも、あなたがそういう理不尽に叱られている立場なら、自分を責めるのではなく、冷静に相手を観察して、できることなら、とっとと逃げ出そう。

叱る相手に、変わってほしいと思うのも、これまた無理ってことなんだな。

 

先日、NHKラジオから流れてきた声にハッとしたことがあった。子育ての悩み相談みたいな番組の中で、回答者が「こどもがわがままを言ってもいいじゃないですか」というのだ。甘やかしてわがままに育ったら困る、といったような相談だったのだと思う。でも、回答者は、子供の時から自分のしたいことを抑制するように育つと、自分の本来の欲望が感じられない子になってしまう、と。自分の欲求を持てない人は、他の人の欲求も理解しにくくなるから、子供の時は好きなだけ自分の好きを追求させてやっていいと思う、というようなことだった。(と、私は解釈した)

 

わがままだと言って叱るのは、いうことをきかせたい、という大人側の欲求なのかもしれないなぁ、、と思った。

 

他人は変えられない。

変えられるのは、自分だけ、とつくづく思う。 

 

他人の不幸をよろこぶ暇があったら、自分の人生のために自分の時間を使おう。