「言志四録」(三) 言志晩録:11 理気の説
佐藤一斎
川上正光全訳注
講談社学術文庫
1980年5月10日 第一刷発行
久しぶりに、言志四録から。
11 理気の説
認めて以て我と為す者は気なり。認めて以て物と為す者も気なり。其の我と物と皆気たるを知る者は、気の霊なり。霊な即ち心なり。其の本体は性なり。
訳文
自分で我と認めるものは気である。また、認めて物とするものも気である。すなわち主観も客観も気である。この我と物と皆気であることを知るものは気の霊である。霊はすなわち心である。その心は天理を具えた性である。
付記
本文は、宗儒の理気説に基くものである。その説く所は、天地間まず理あり、然る後に気があって物を生ずるという。
朱子語類に、「天地の間、理あり気あり。理なるものは形而上の道なり。物を生ずるの本なり。気なるものは形而下の器なり。物を生ずる具なり。これを以って人物の生ずるや、必ずこの理を稟(う)け然る後に性あり。必ずこの気を稟け然る後に形蟻」とある。
さて、さてもさてもの、、、、さっぱりわからん。。。。
理気説とやらを調べてみた。
広辞苑によれば、
理気説:”朱子学の存在論。万物の生成を陰陽の気の動きによるとしながら、一方その動きの根拠に太極としての理があるとする。この理気二元論に対して、明代に入ると、理を気の条理とする羅欽順(らきんじゅん)らの一元論が現れる。”と。
さて、まだまだ、よくわからん。。。。
もっと、分解してみると、、、
「理」とは、物事の筋道。ことわり。仏教では普遍的な絶対の真理。中国哲学では宇宙の本体。
その、「理」が一番最初にある、ということか。
それから「気」が生じる。
「気」とは、広辞苑によれば、これまた「天地をみたし、宇宙を構成する基本と考えられるもの」「心の動き、状態」。
自分自身も、目に見えている目の前にあるものも、「気」があるから。でも、「気」があるのは、もっと根源である「霊」があるから。
「霊」が、「理」であり、絶対的な真理。
宇宙があるから、自分はいるし、ものは存在する。
自分一人ではどこにも存在しえない。ってことかな???
人間は、一人では生きていけないし、そもそも自然発生的にうまれたりはしない。
今ここに自分が生きているのは、間違いなく父母がいて、その先には祖父母たちがいて、、、。
果てしなく、宇宙まで続く時間軸のつながりがあり、地球上という横のつながりがあり、、、。
でも、その自分が存在している宇宙のことも、地球のことも、日本のことも、はたまた地域のことも、まだまだ知らないことがたくさんある。
でも、「モノ」としては知らなくても、「理」はそこにあるし、「霊」はそこにある。
難しく考えず、宇宙の中のいち生物として生きていけばいいのか。
ヤマザキマリさんの言う「地球から愛される人になる」ってことかな。
「言志四録」、よくわからないけれど、少しずつ読んで、考えてみよう。
たまには、こういう答えのわからないことを考える時間がいい。
難しいビジネス本より、絵本のなかにその答えがあることがある気もする。答えが書いてある本より、答えのない本のほうが面白くなるのは、歳をとったてことかもね。
まぁ、歳をとるって、楽しみが増えるってこと。