伝統工芸
とあるところで、「伝統工芸」について話題になった。
日本の伝統工芸は、継ぎ手が減少し、衰退の一途をたどっているのだと。
「伝統工芸」とは、正式名称「伝統的工芸品」で、経済産業省が指定している。
以下、リンクからの抜粋。
”「伝統的工芸品」とは
・主として日常生活の用に供されるもの
・その製造過程の主要部分が手工業的
・伝統的な技術又は技法により製造されるもの
・伝統的に使用されてきた原材料が主たる原材料として用いられ、製造されるもの
・一定の地域において少なくない数の者がその製造を行い、又はその製造に従事しているもの
上記5つの項目を全て満たし、伝統的工芸品産業の振興に関する法律(昭和49年法律第57号、以下「伝産法」という)に基づく経済産業大臣の指定を受けた工芸品のことをいいます。”
だそうだ。
有田焼、南部鉄器、九谷焼、江戸切子、加賀友禅、西陣織、輪島塗、鎌倉彫、、、。
あげればきりがない。ただの、美術品ではなく、「使う」ことを目的とした「日常生活の用」があるもの。
これらの伝統工芸品の作り手が減っていることと、その売り上げが減っていて、地域産業として危うくなっている、という話だった。
これらの手工業的なものは、生活に使う品としては、安価な大量生産品に追いやられてしまった、というのが歴史ではないだろうか。西陣織や京組みひもなどは、着物生活から洋服生活に変化することで、使われる場面自体が減ってしまったことも要因だろう。需要が減って、作り手が減って、稀少になるほど高値になって、ますます手にしにくくなる。美しいものを残したいと思うけど。
南部鉄瓶で沸かしたお湯でお茶を入れると美味しい、と言われる。女性には鉄分もとれていいとも言われる。私も、欲しいと思ったことがある。でも、結局はお湯をわかすのには「ティファール」の電気ポットを使っている。。。便利さに負けている。
伝統工芸品と言われる品を手に取ってみると、やはり、それは美しく、手にしっくりきて、日常使いできたらいいな、と思う。その反面、日常使いするには高価過ぎて手が出なかったり、、。
伝統工芸品の生産額は、1984年の5410億円から2016年には927億円と、1/5以下の規模になっているのだそうだ。それに伴い、そこで働く人の数も、30万人規模から、5万人規模に減少。
そういう話を聞くと、それは残念だな、と思う。なくなっちゃったら、日本の伝統が無くなりそうで、寂しいな、とか、残念だな、と思う。かといって、自分がその継承者になろうと思い立つまでにはならない。そもそも、自分にはそんな技術もない。でも、伝統工芸が消えていくのを指をくわえてみているだけでいいのだろうか、、、、と思ったり、、、。
ただ、気に留めるって、ただの野次馬根性なのかなぁ、、、なんて思ったり。
私にできるのは、せいぜい、懐の許す範囲で、気に入った工芸品を購入して日常使いすることだ。
本物を見る目は、本物を使うことでしか養えない。
本物の価値は、本物を使うことでしか、わからない。
そんな気がする。
土井さんが器を見る目を養ったという話に、共感する。
大量生産された安価なものが、必要な場面もあるだろう。一方で、一生使える本物を大事にすることで生まれる心の豊かさは、何ものにもかえがたい。
実は、今、今年の1月に注文した漆器を待っている。
年に一度の予約受付。
届くのは、夏ごろの予定。
届いたら、大事に使おうと思う。
私は、ミニマリストではないけれど、50歳を過ぎて、そろそろ物を減らして、本当に良いものに囲まれて過ごしたいな、と感じている。
伝統工芸とはレベルが違う話だけれど、先日、洗濯ネットのファスナーが壊れた。たぶん、10年以上つかっているから、惜しくもないのだが、そのサイズのものがないと困るので新調した。100円ショップでも、いくらでもあるだろう。でも、あえてホームセンターにいって、600円くらいするものを買った。大事に使おう、という気持ちになる。たった、600円の話だよ。それでも、ね。そもそも、600回つかったら、一回あたり1円だよ。。。それをけちることはなかろう。
日常使いだからこそ、良いものを使おう。
美術的美しさ、機能的美しさ、本物はその両方を兼ね備えている。だからこそ、その価値にお金を使う。そして、大事につかう。これも一つの「身銭を切る」ってことかな。
本物を知りたければ、本物を使おう。