『存在の耐えられない軽さ』 by ミラン・クランデ

存在の耐えられない軽さ
ミラン・クランデ
千葉栄一 訳
集英社
1993年9月25日 第一刷発行
1993年10月24日 第二刷発行

 

先日、7月11日、訃報がニュース、新聞で取り上げられた。小説『存在の耐えられない軽さ』(1984)の作者で、チェコスロバキア(現チェコ)生まれの作家ミラン・クンデラ氏。享年94歳。パリで、闘病の末になくなったとのこと。

クンデラは、1968年のチェコ民主化運動「プラハの春を鎮圧したソ連チェコ侵攻を批判し、チェコ国内で著書が発禁となる。その後、1975年にチェコを出国。1981年にパリでフランス国籍を取得した。

1967年に出版された処女作『冗談』では、チェコ共産主義体制と自身も党員だった与党を痛烈に批判。『存在の耐えられない軽さ』(1984年)では、プラハの春とその激動の終焉を描いて、88年に映画化された。

映画化されたことを覚えている。当時、大学生だった私は、観には行っていない。同級生が「エロ映画だよ」と言っていた記憶がある。どんな俳優、女優だったのかも知らなかったのだけれど、YouTubeで検索すると、少しだけ広告映像を見ることができた。
あぁ、、、こんなに可愛らしい女性がテレザ役で、こんないけすかない俳優がトマーシュだったんだ、、、と。今更ながら、全編観てみたい。

 

本書の裏ページの説明には、
”ほんとうに重さは恐ろしく、軽さはすばらしいことなのか?
男と女の、限りない転落と、飛翔。
愛のめまい、エロティシズム。
冷戦下の中央ヨーロッパの悲劇的政治状況の中で、
存在の耐えられない軽さを、かつてない美しさで描く。
クンデラの哲学的恋愛小説”
とある。

 

感想。
あぁ、、、なんという。。。
これは、若い時に読んでも、わからなかっただろう、と思う。
「存在の耐えられない軽さ」って、そもそも、その言葉の「重み」がわかるのは、人生折り返してからかもしれない。。。
あぁ、、、、なんてこった。って感じ。
でも、テレザもトマーシュも、幸せな時間があった。結局、田舎で過ごした最後の時間が、二人の幸福の絶頂だったんだ、、、と思う。政治的思想を表に出したことで、体制から追放の身となるトマーシュ。歳を取り、もう、外科医として活躍することもなくなったトマーシュ。それでも、医者として人を癒すことのできるトマーシュ。なのに、テレザのこと、息子のこともうまく癒せなかったトマーシュ。
人の存在ってなんなのか。。。

 

目次
第Ⅰ部 軽さと重さ
第Ⅱ部 心と身体
第Ⅲ部 理解されなかった言葉
第Ⅳ部 心と身体
第Ⅴ部 軽さと重さ
第Ⅵ部 大行進
第Ⅶ部 カレーニンの微笑


永劫回帰という考えは、ミステリアスで、ニーチェはその考えで、自分以外の哲学者を困惑させた。われわれが既に一度経験したことが何もかももう一度繰り返され、そしてその繰り返しがさらに際限なく繰り返されるであろうと考えるなんて! いったいこの何ともわけのわからない神話は何をいおうとしているのであろうか?”

と、始まる第Ⅰ部。

最初は、著者の独白のような本なのかとおもったら、そういうわけでもない。それぞれの部は、それぞれの話として一つであり、かつ、時系列に並んでいるわけでもない。。。ある意味、くり返しが、順序に関わらず繰り返される・・・。

 

主な主人公は、
トマーシュプラハで働く外科医。かつて一夜の相手だったはずの女が妊娠し、結婚して一男を儲けたが、2年で離婚。養育費は送るものの、息子の成長とは一切縁のない生活をしていた。 務めていた病院からプラハの田舎へ医師が必要と言われて短期間の出張をする。その際、レストランでウエイトレスをしていたテレザと出会う。外科医の腕は素晴らしいが、これまで抱いた女は200人以上といいはる女たらし。

 

テレザ:一度しか会っていないトマーシュを追って、プラハへ。トマーシュと結婚するが、最初から最後まで、トマーシュの浮気に悩まされる。サビナが夫の愛人であると知りながら、サビナと交流する。

 

サビナプラハの画家。トマーシュの愛人。とはいえ、愛人でいることを自ら望んでおり、土地を変えては違う男の愛人として生きていく。トマーシュとテレザがプラハからチューリッヒに逃げ出した時、サビナもチューリッヒに逃げていた。テレザが初めてプラハに来た時には、報道写真に関わる仕事の斡旋もしてやる。

 

フランツ:サビナのチューリッヒでの愛人。愛を感じなくなっていた妻に、サビナとの関係を明かし、サビナと暮らそうとするが、それを察したサビナに捨てられる。

 

レーニン: シェパード犬。結婚したテレザとトマーシュだったけれど、トマーシュは相変わらず女遊びで家にいつかない。テレザの寂しさを紛らわすためにトマーシュの同僚のうちに生まれた子犬を飼うことにした。テレザが田舎町でトマーシュと出会ったときに小脇に抱えていたのが、トルストイの『アンナ・カレーニナだったことから、カレーニン命名

 

シモン:トマーシュの最初の妻との間の息子。ずっと別れて生きてきたが、シモンは、共産主義の母の元を離れ、トマーシュと近い社会思想になっている。ある時、トマーシュの元をおとずれて、その社会思想活動への署名をしてくれと言ってくる。トマーシュは、結局署名はしないのだけれど、そのあともシモンはトマーシュに他愛のない手紙を書いてくるようになる。


物語そのもののネタバレは、やめておこう。

どこにでもある、夫婦の諍い。浮気。でも、その背景にある絶対的社会の体制・・・。

同じタイトルの部があるけれど、それぞれ、違うお話。

 

第Ⅲ部の理解されなかった言葉というのは、同じ言葉を発していても生じる「行き違い」あるいは、「誤解」。二度と、取り返しのつかない、行き違い・・・。例えそれが、浮気の世界だったにしても、セツナイ行き違い。

 

第Ⅶ部のタイトルが、カレーニンとなっているのは、トマーシュとテレザが、心から同じ方向を向いて、カレーニンのために、、、、時間と情熱を使う。カレーニンは、脚に癌ができて、倒れてしまう。時系列で言うと最後ではないのだけれど、本書では最後がカレーニンをめぐる二人のはなし。ほっこりと、心が和む。

 

物語の順番が時系列ではないので、トマーシュとテレザの運命が最後どういうものであったのかは、読書は、本の中盤で知ることとなる。え?!夢の話?いや、本当?いつのこと??
って、ちょっと、動揺させられる。

 

本書を読むコツは、完全なる「第三者」の立場で、物語を観察することかもしれない。だれかに、例えば女性がテレザに入れこんで読めば、ろくでなし亭主と戦う女なの話だし、男性がトマーシュに入れこんで読めば、自立しない妻にイライラさせられるけど捨てることもできない、やっかいなお荷物を抱え込んだ自分(夫という立場)にあ~あ、、と思うかもしれない。

でも、言えるのは、読んだ後に、じわっと温かいものがやってくるということ。

 

言論の自由が当たり前と思っている時代に生きていると、だれかの「言葉」は、「その言葉として理解される」ことがある。でも、本当に、誰かの言葉を他の誰かが理解できることなんてあるのだろうか・・・・。
それができるのが、夫婦なのかもしれない。いや、やはり、そうでもないのかもしれない。 

 

世の中「絶対」なんてこともないし、誰かのことを「理解する」なんてこともないのかもしれない。それでも、理解したいから、、、人は語り合う。

そして、簡単なことで人生の落とし穴に陥ったり、あるいは、命そのものを落としてしまうこともある。

 

クランデは、

人生の重荷が重いほど、我々の人生は地面に近くなる。

現実的、真実味を高める。

そして、その荷物が軽ければ、自由であると同時に、無意味になる。”

と言っている。

 

耐えられなかろうと、生きていくのだ・・・。

重いほど、意味があると。。。。信じて。

 

例え、ただの繰り返しに何の意味がいあると誰かに言われたって、

自分の人生は、自分のものだ。

自分の人生に重みがあるのか、意味があるのか、

それだって、自分で測ればいいこと。

 

今日は、今日で、生きていこう・・・。

 

やっぱり、読書は楽しい。