『対決!日本史4 日露戦争篇』 by 安部龍太郎・佐藤優

対決!日本史4 日露戦争
作家 安部龍太郎
作家・元外務省主任分析官 佐藤優
潮出版
2023年3月20日 初版発行

 

図書館の歴史の棚で見つけた本。安部さんと佐藤さんの対談で前に読んだことがあるぞ?とおもったけれど、4 日露戦争は、読んでいない。ということで借りてみた。あとから、「3 維新から日露戦争」をまだ読んでいないということに気が付いたけど、、、ま、順番通りでなくてもよかろう・・・。

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今年の3月出版だから、比較的新しい、と言える。まえがきには、佐藤さんの「ロシアのウクライナ侵攻」(2022年2月24日~)の解説がある。ロシアvsウクライナの戦争は、2国間の枠組みを超えて、ロシアvs西側連合の戦いになった。西側諸国にすると、この戦争は民主主義vs権威主義の戦い。ロシアからすると、真実のキリスト教徒(正教徒)vs悪魔崇拝者の戦い、だと。佐藤さんは、これを「価値観戦争」と言っている。相手の価値観を否定し、一方を根絶するまで続く殲滅戦になるのだ、と。

と、そんな状況がつづいているなか、今回は「日露戦争」について。本当は、「3 維新から日露戦争」を先に読んでいた方がよいのだろうけど、、、、ま、いっか、と。

 

目次
序章 日露戦争からウクライナ戦争を照射する視点
第1章 日清・日露戦争 東アジアの地政学
第2章 日露協商の挫折
第3章 日露戦争の前哨戦としての日英同盟
第4章 正戦論と反戦
第5章 二百三高地の教訓
第6章 バルチック艦隊来襲
第7章 ポーツマス条約
第8章 日露戦争とは何だったのか


日清戦争から、日本は、10年に一回戦争する好戦国になった。
1894年(明治27年) 日清戦争
1904年(明治37年) 日露戦争
1914年 第一次世界大戦

これは、教科書でもよく出てくる表現。10年に一度の戦争が3回。
日清戦争日露戦争と勝ってしまったばかりに、次なる戦争に流れ悲惨な歴史を残すこととなる。

お二人の解釈は、日露戦争のバックグラウンドではイギリスやアメリカの思惑がうごめいていたということ。イギリスは、日清戦争後にロシアが満州へ南下するのを抑えたかった。でも、その余裕がなかったので日本と戦争してくれた方がよかった。アメリカにしても、日本が消耗してくれたほうが都合がよかった・・・・。

単に、ロシアと日本の対立ではなかったというのは、現在のロシアとウクライナの戦争と重なる、という。ロシアvs西側諸国 の図。佐藤さんは、アメリカに管理され、「NATOとロシアが直接はぶつからない」という条件で戦争をしている限り、ウクライナは勝てない、と言っている。日本の場合は、うっかり?!ロシアに勝ってしまったのだが、、、。

 

バルチック艦隊を破ったというのは有名な話だけれど、他にも「有坂銃」というものがあった。日露戦争勝因の一つとなった「有坂銃」とは、有坂成彰という兵器創造者が開発した新型ライフルで、口径が6.5ミリとロシアが使用していた7.62ミリよりやや小さく、原料を節約しながら銃や弾薬をたくさん作れた。破壊力は口径の大きい銃より落ちるが、命中率を高めて、弾薬の再装填を容易にし、相手の戦闘能力を奪うことに成功した、、、と。
これは、メカにつよい安部さんのみたて。佐藤さんは、
”実は戦場においては、必ずしも兵器の破壊力が強くなくてもいいんですよね。敵兵に銃弾を充てる必要はあっても、致命傷を負わせて殺す必要はないのです。銃弾がビュンビュン飛び交う戦場では、死んでしまった兵隊の遺体を無理して引き上げる必要はありません。・・・仲間が負傷したとき、生きている負傷者を救出しない部隊はありません。負傷者を戦線から安全に離脱させるためには、最低2人の力が必要です。”
と・・・。

なるほど、、、なのだけれど、それが、本当の戦争か。。。と思った。
日本軍がそういう銃を手にしたことが大きかった、と。

 

当時活躍したスパイとして明石元二郎の話がでてくる。レーニンとも渡り合った日本のスパイと言われている。でも、本当のスパイというのは、記録を残さない。だから、本当のところ、明石がどのようにスパイ活動をしていたのかは、歴史の闇、なのだそうだ。そして当時のロシアを知りたければ、司馬遼太郎の『坂の上の雲はフィクションだからあまり信じてはならず、『ロシアについて』というエッセイなら参考にできるって。
確かに、司馬さんは、小説にするときには美しい物語に創り上げているから、史実と思ってはいけないところが混じってくるのだろう。

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バルチック艦隊に勝った理由については、東郷平八郎司令官長率いる連合艦隊がすごかったというより、バルチック艦隊疲労困憊状態だったから、という説明がある。

日露戦争が開戦すると、朝鮮半島に上陸した第一軍は、半島の制圧に成功する。1904年5月には、第二軍が遼東半島に上陸し、乃木希典が旅順攻略。日本の連合艦隊は、旅順艦隊を撃破。戦況がまずいと見るや、ロシアはバルチック艦隊を遠征させた。
でも、そのバルチック艦隊は、赤道の下を越えて来たために、過酷な猛暑の中、食料はあっても腐っている、水兵は飢えて疲れ切っていた・・・。一刻も早くロシアの港に帰りたくて、日本と戦う元気なんてない状態だった。。。

日露戦争の死者は、実は日本の方がロシアの倍。7万2480人の命を失った・・・。勝った方が負けたほうの倍の死者をだした、そういう戦争だったのだ・・・。

そういう点では、バルチック艦隊に勝ったのは戦力よりも「時の運」といった方がいい。でも、日本国民は、自分たちが強いと勘違いした。悲劇の始まり。
バルチック艦隊撃破」という熱狂的な体験から、逃れられなくなっていた。戦後の講和条約であるポーツマス条約に反対して日比谷焼き討ち事件までおこす。当時の社会世論のなかで、思い上がりだ、と、指摘できる人がいたのだろうか。 

 

一方、ロシアでは、バルチック艦隊が敗れたもののまだ戦力的な余力はあったにも関わらず、ポーツマス条約を受け入れる。それは、内政が混乱していたからだというのが佐藤さんの解説。ロシアの民衆は「こんな戦争、もう勘弁してくれ」と思っていた。平和を求めていた。反戦運動から、サンクト=ペテルブルクの治安は悪化。ガポンという正教会の神父が実施した平和デモに対して、彼らは武器を持っていなかったにもかかわらず、武装した騎馬隊が丸腰のデモ参加者(労働者たち)を銃で撃った。流血の大惨事となった「血の日曜日事件。民主の怒りはさらに爆発。。。もう、日本と戦っている場合ではなくなっていた。

そして、日露戦争がおわっていく。

 

やっぱり、なかなか面白い二人の対談。

まだ、私には理解できていないところもたくさんある。

そして、なぜ、太平洋戦争になっていったのか、、、。

陸軍の暴走とだけ言ってしまうのは、やっぱり違う気がする。。

 

戦争歴史を知ることは大事なことだけれど、やっぱり、気持ちが沈んでくるなぁ、、、、。まぁ、こういう本も興味深いけど、、、ね。